
山口情報芸術センター(YCAM)に池田亮司展を観に行った(3/1。同展は5/25まで)。当日は初日であり、夜には「datamatics [ver.2.0](完全版)」が上演された。わずか3つの、しかし文字通り圧倒的な情報量を持つインスタレーションと、ふたつのパートに分かれたコンサートは、作家の現時点での到達点を明らかにしている。その到達点は、20世紀初頭の冒険家たちによる極地探検のように前人未踏のものである。

暗いスタジオAの入口でまず目に入るのは、縦4cm×横10mという、視線の高さで横に長く伸びる細い光の帯である。近づくとそれは白く輝くLEDライトボックスであり、中央に35mmフィルムがマウントされているのがわかる。さらに目をこらすと、フィルム上に細かい数字が焼き付けられているのも見える。何を意味するのかわからない、膨大にしてランダムに思える数字の群れ。キューブリックの『2001年宇宙の旅』を観た者なら、不可解にして不穏な存在として中空に突然現れた、あの黒いモノリスを連想するに違いない。

光の帯の裏側に回ってスタジオAの内側に入る。神経性のチックのような高速リズム音に短い正弦波音がときおり重なる。目の前に広がるのは巨大で空虚なやはり黒々と暗い空間であり、奥の壁面だけが強烈な光を放っている。赤や青が一瞬だけきらめくものの、基本的には入口のインスタレーションと同様にモノクロの映像だ。おそらくはなんらかの関数に基づく無数の線分が上下し、細かい正方形の画素がリズミカルに増減する。最後にはここでも膨大な数字の群れが爆発的に増殖し、数字の海となってスクリーンに溢れかえる。

2階のスタジオBはやはり薄暗く、床に8台のモニターと16台のスピーカーが並べられている。スピーカーからは、重低音から可聴音域ぎりぎりの高音(あるいは、可聴音域外の超音波から低周波音?)までが様々に変奏されつつ流れるが、いずれの音もスタジオ内の空気を攻撃的に切り裂くように感じられる。画像は音に精確に同期しており、テレビ放送の開始・終了時に流れるテストパターンが、不可視の標的に向かって投げられたナイフのようにモニターの画面を高速で走り抜ける。

インスタレーションはそれぞれ、「data.film」「data.tron」「test pattern」と名付けられている。すべて小文字の作品名からも想像されうるように、データを解析し、変換し、再構成してつくられたものだ。それだけであれば、あまたのアート、映像、音楽、文学などなどの表現行為と本質的に変わりはない。表現者がやることとは根源的にはそういうことであり、料理や大工仕事など、世界に存在するほとんどすべての仕事も同じようなものだ。しかし池田の作品が他と決定的に異なるのは、データの総量と完成度、そして背後に秘められた制作意図である。3つのインスタレーションでもおぼろげにそれは感じられたが、コンサート「datamatics [ver.2.0]」は予感を確信に変えてくれるものだった。
前半は2006年6月に東京国際フォーラムで上演された映像+音楽をバージョンアップしたものだった。特筆すべきは後半で、池田によるサウンドは「フーリエ変換の極み」とでも言えばよいか、微細なささやきからジェット機の爆音に至るようなバリエーションを畳みかける。松川昌平、角田大輔、平川紀道、徳山知永によるコンピューターグラフィックスが、数字、文字、記号、点、線、ワイヤーフレーム、バーコードなどで画面を埋めつくす。前作『C4I』にはカラフルな風景の映像もあったが、今回は禁欲的なまでに抽象的で、ほとんどモノクロを貫いていた。高解像度の画面にグリッド状に配された大量の点が広がって回転すると、巨大かつ精緻な3Dの銀河モデルを見ているような気になってくる。
やがて画面は縦8列に分割され、おのおのにモニター状のものが映される。各モニターの画面に現れるのはこれまで見てきたようなデータの奔流。流れが速くなるにつれて、正弦波を複雑に組み合わせたサウンドのテンポも速まり、音量も上がってゆく。クライマックスシーンはいまや既視感を感じさせるような例の「数字の海」で、爆音が耳をつんざく。会場が画面ごと爆発するのでは? などという妄想がふくらみはじめた瞬間に、画面とサウンドはそれぞれホワイトノイズに変貌する。すべては「海」から「砂」へと変わり、音量は爆音から耳鳴り程度に静まり、20分の光と音の饗宴は幕を閉じた。
池田とダムタイプのメンバーが設計段階から注文を出していたというだけあって、スタジオAの設備と響きは世界でも最高水準である。さらに今回(も)、機材や音響設計に関する作家の注文は非常にうるさく、YCAMスタッフは「ぎりぎりの水準までトライした」と証言する。一方、池田が使った素材はヒトゲノムから無理数までの様々な「膨大なデータ」だ(それは膨大であるだけに誰にも知覚しようがないし、しなくてもかまわない。久保田晃弘が『intoxicate』72号に書いているように、「そもそも人間が知覚したり理解することを期待したり前提としていない」、つまり「既にそこにあるもの」(ロラン・バルト/大竹伸朗)なのだ)。質量ともに極限を目指していると言ってよいだろう。
こうした制作の態度と技法、すなわち、できうる限り多量のデータを集め、画素や正弦波などの最小単位に分割し、それらを考え得る限り最高水準の技術で再構築するという態度と技法は、もちろん池田の制作動機と密接に結びついているに違いない。池田の作風は「ミニマリスト」と称されることが多いが、僕はその呼称は作家の半面しか伝えていないと思う。池田は、ミニマム(極小)だけではなくマキシマム(極大)をも求めているのではないか。そして人には無理だということを承知しつつ、あえて言えば「宇宙生成の原理」を、作品づくりを通じてシミュレートしようとしているのではないか。
コンサート終了後、山口の夜空は雲ひとつなく、夥しい星がきらめいていた。共通の友人が、池田がある日、星空を見上げながら「あれにだけはかなわないな」と呟いたと教えてくれた。
『datamatics [ver.2.0] 完全版』は、東京では3/16に、恵比寿ザ・ガーデンホールで上演される。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。