COLUMN

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Out of Tokyo

265:会田家作品への撤去要請
小崎哲哉
Date: August 21, 2015

遅ればせながら、東京都現代美術館(MOT)の『ここはだれの場所?』展(10/12まで)に足を運んだ。問題となっている(いた?)会田家の2作品を観るためである。多くの人が書いているとおり、会田家&会田誠らしいユーモラスな、そして、なぜ問題となったのかさっぱりわからない、普通によく出来た作品だった。

 

『ここはだれの場所?』展 | REALTOKYO

2作品のひとつ「檄」は、会田家に割り振られた展示空間の真ん中に高々と吊されていて、ヘタウマ的な書き文字と相俟ってインパクトがある。「文部科学省に物申す」とあるとおり、以前からひどかった、そして安倍政権になってさらに悪化した文科省の教育方針に、くだを巻く酔っ払いオヤジのようにいちゃもんを付けていて小気味よく笑える。檄文という体裁は、45年前の昭和45年に45歳で自死した、そして十代の会田が影響を受けたという三島由紀夫のそれを想わせる。当然ながら、森村泰昌の「なにものかへのレクイエム・MISHIMA」をも想起させる。

 

会田家「檄」 | REALTOKYO
会田家「檄」
展示風景:「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」東京都現代美術館、2015
Courtesy Mizuma Art Gallery

もうひとつの「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」は、安倍晋三によく似ている自らの風貌を活かした映像作品。会田は、つとに2007年に『ガンダーラ映画祭』のポスターで安倍首相に扮しているが、訥々とした英語で「あらゆる国は鎖国せよ」と説く様は笑いを誘う。過去作品「日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ」とも共通する脱力系名演技。杉本博司は、あるインタビューで「視覚的にある強いものが存在し、その中に思考的な要素が重層的に入っているということが、現代アートの2大要素」と述べているが、2作品ともこの定義に当てはまる。文科省が国立大学に「人文系見直し」を求め、安倍政権が傍若無人に振る舞ういま、作品発表のタイミングもよい。

 

会田誠「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」 | REALTOKYO
会田誠「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」
2014 / ビデオ(26分07秒)/ (c) AIDA Makoto / Courtesy Mizuma Art Gallery
第2回ガンダーラ映画祭(2007年)の宣伝素材として撮影した写真 | REALTOKYO
第2回ガンダーラ映画祭(2007年)の宣伝素材として撮影した写真
会田誠「日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男のビデオ」 | REALTOKYO
会田誠「日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男のビデオ」
2005 / ビデオ(8分14秒)/ (c) AIDA Makoto / Courtesy Mizuma Art Gallery

このふたつがMOTから、正確には「美術館を代表する形で、チーフキュレーターの長谷川祐子氏と企画係長の加藤弘子氏から」(2015年7月25日、会田誠「東京都現代美術館の「子供展」における会田家の作品撤去問題について」)撤去を要請されたという。『web D!CE』の取材に応えた会田の弁によれば、長谷川氏は「私は撤去すべきだと思います。撤去すべきだと思わないんですか?」と述べたという。会田のツィッターによれば「長谷川祐子氏は何度も「撤去」という言葉を使っています。「〜するべき」「〜してくれ」等。あと例えば「檄というスタイルが刺激的でダメ。同じ主張のことを、表現和らげワープロ文字にして壁に掲示するならいい」とも」。私は加藤氏を存じ上げないが、日本を代表する国際的キュレーター、長谷川氏を知る者として、その言葉はおよそ信じがたい。ネットがごく当たり前のものとなったこの時代に、炎上が起こることを予測できなかったというのも信じがたい。MOTの現場も東京都の担当者も世間知らずが過ぎないか?

 

主催者による自己規制や検閲といえば、会田と近しい小沢剛が、2005年の広州トリエンナーレで「当局からのストップ」に遭っている(REALTOKYO『昭和40年会の東京案内』第19回)。だが、10 年前の中国と現代の日本とでは、事情が大いに異なる。また、理不尽な政治・社会状況への批判や意義申し立ては近現代アートが果たすべき役割のひとつであり、先行例を挙げれば大部の書物が書けるだろう。何よりも長谷川氏自身が(私が編集長を務めていた雑誌へ寄稿してくれた)川久保玲と妹島和世についての記事の中で「批評性や政治性はしばしば時代のモードの中に容易く回収されてしまう。彼らは流行や人々の間に蔓延する時代のモードに疑いと嫌悪を持つが、それゆえに時代に対するもっとも徹底した観察者であり分析者である」(『ART iT』13号「日々の思索」第5回)と記している。会田家のこの作品は、まさにこの言葉に当てはまるものではないか。あるいは、会田家の批評性は「時代のモードの中に容易く回収されてしま」ったものと同レベルだとでも言うのだろうか。

 

会田は上に引いた文章を発表する直前に、ツィッターで以下のように記している。「「子供」に対する僕の思いを近日中に書くと思う。それと、たぶん近日中に書かれるだろう、東京都現代美術館のチーフキュレーター長谷川祐子氏の文章を比較して読んでもらいたい。もちもん(※ママ)文章を書く技術において彼女の方が圧倒的にプロだ。僕はただ愚直に誠実に書くしかない」。小説『青春と変態』やエッセイ『カリコリせんとや生まれけむ』などによって名文家として知られる会田の、これはちょっとした挑発というかイケズだろう。本日現在、長谷川氏の文章は発表されていないが、書くのであれば東京都にではなく、アーティストとアート界に資する文章を書いていただきたい。長谷川さん、あなたが守るべきは「お上」などではないでしょう。

 

はじまるよ、びじゅつかん(おかざき乾じろ 策) | REALTOKYO
はじまるよ、びじゅつかん(おかざき乾じろ 策)
はじまるよ、びじゅつかん(おかざき乾じろ 策) | REALTOKYO

『ここはだれの場所?』には、「おかざき乾じろ(岡﨑乾二郎)策」の「はじまるよ、びじゅつかん」という展示もある。岡﨑といえば、会田がその作風と題名をパロって、彼の盟友とも呼ぶべき批評家の名前を入れ「美術に限っていえば、浅田彰は下らないものを誉めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どのようなかたちで取るのだろうか。」という作品を作った作家である。「はじまるよ、びじゅつかん」は「おとなのひとは はいれません」とあったので詳しい内容はわからないが、入口に以下の文章があった。「仲間とつるんで、意見を合わせることは、おとなにとって世の中(世間)を知っているということなのでしょう。…そんなおとなたちにとって、勉強とは、世の中にじぶんをうまく合わせるためにするものなのです。そしてそれができるひとには「きみはおとなだね」というのですね」

 

長谷川氏は、役人のような下らない「仲間」とつるむのはやめるべきだろう。氏が師と仰ぐ伝説的キュレーターのハラルド・ゼーマンは、ドクメンタ5の芸術監督を務めた際に参加作家たちから「アーティストはキュレーターの道具ではない」と批判されたが、その批判を図録に収録するだけの度量があった。世界中のアーティストが、アートファンが、同僚のキュレーターが、氏の文章を心待ちにしている。今回の経緯と背景を正確に記し、真摯に反省し、今後は下らない役人の下らない介入を阻止するだけの力を持つ文章を、である。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。