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Interview

041:榎本憲男さん(『見えないほどの遠くの空を』監督・脚本)×ケラリーノ・サンドロヴィッチさん(ナイロン100℃主宰)【後編】
取材:福嶋真砂代/構成・文:松丸亜希子
Date: June 11, 2011

前編からの続き>

 

演劇と映画、準備や演出の相違点

 

榎本:演劇と映画の違いを想像するに、演劇は初日の幕が上がるまでに間に合うように決断すればいいんだけど、映画はカメラが回るまでに決断しないといけない。KERAはそのスケジュール感の違いに戸惑っているように見えることがあった(笑)。それにしても、いつも台本がぎりぎりになってるにも関わらず、映像をふんだんに使ったり、ものすごく複雑な舞台装置も作ったりして、スタッフはどうやって間に合わせてるんだろうって、観るたびに不思議に思うよ。

 

KERA:逆に、僕らのチームは早めに言っても動いてくれなかったりするんです。クオリティを上げたいと思うと早めに言うじゃないですか。でも、みんな忙しいから、余裕があるとほかのチームのことをやってる(笑)。映像班が具体的に動き出すのは劇場入りの1、2週間前。場当たり、ゲネプロ、本番ってあるけど、場当たりとゲネプロは、例えば映像なんかも「すいません、ここまでしかできてません」っていうテロップが流れて、本番で初めて完成したものを見るとか。自分も、劇団公演なんかの場合、あと40枚書かなきゃいけないっていうときに、それを10時間で書くのと30時間で書くのでは、当然時間かけたほうがよくなるじゃないですか。脚本冒頭の20枚くらいなんてずーっと書き直し、書き直し、延々自分の中のハードルをもっと上げても飛べるんじゃないか。まだ間に合うなら、間に合う限りは上げようって。それが劇団の場合は確かに非常識なスパンだとは思う。

 

『1980』『罪とか罰とか』 | REALTOKYO
ケラリーノ・サンドロヴィッチ(監督)×榎本憲男(プロデューサー)のタッグによる作品のDVD。左『1980』(東北新社)、右『罪とか罰とか』(メディアファクトリー)

KERA:僕の演出は、ある俳優には細かいとも言われるし、また別の俳優にはそんなことないと言われたりもする。ほかの演出家のやり方を見る機会がないから、わからないんですよね。でも、映画監督に関しては、いかに演技演出している人が少ないかというのは感じる。

 

榎本:映画の世界って、なにも言わないで芝居付けができる人がすごい監督だと言われることがある。クリント・イーストウッド監督も「別に演出してない」とか言いつつ、映画になったらすごくいい芝居が撮れてるという。これはいつも不思議に思うね。

 

KERA:俳優に言わせると、もうちょっと説明があって、もうちょっとリハーサルすれば、自分的にはさらにいい演技ができたのにって言う人も多いんですよ(笑)。舞台をやりたがる人は、稽古がいっぱいできるから練れる。映画の場合は、撮影初日にいきなり真ん中へんのシーンから始まったりするじゃないですか。どういうトーンで演じていいかもわからないのに、なんの指示もなくやったら、つながりを考えるのはある意味役者としての責務だから、あそこをこう撮っちゃったから、もうキャラクターを変えるわけにいかないなって。変わっちゃう人もいますけどね。いずれにしても、非常にリスキーなやり方が常識になっている奇妙な世界だと思います。

 

小さな映画ほど意識的な戦略を

 

榎本憲男 | REALTOKYO
榎本憲男

榎本:最近ツイッターでいろいろつぶやいてるんだけど、後に続く人たちがやりやすいようになったらいいなと思って。ただ、自主映画に関わる人たちも、面白いもの作らないといけない。志しだけ清らかで、つまんなくてもごめんねっていうのはないんじゃないかな。でも、徐々に変わってきてるし、自主映画でも日本の観客を意識したものが出てきてる気はする。昔はインディペンデントの小さな映画は、海外映画祭を狙って凱旋上映みたいなパターンが一般的だった。だから、むしろわかりにくいくらいのほうがいいという意見さえあったんだけど、今はそうもいかない。しかし、観客とはどういう人たちなのかってことがまた難しい……。

 

KERA:それ考え始めるとわかんなくなって、やりたいことやれなくなりますね。観客とはこういうものだっていう定義がしにくい。堂々巡りでわからなくなって、結局やりたいことやるしかないんじゃないのってなっちゃう。他人の作品を観るとき、それが自分の趣味に合わないとしても、やりたいことがわかったほうがまだ納得できるし、ぼんやりしてるのがいちばんイヤだって僕は思うけど、そういうお客さんばかりでもないし。意外と観客はそこを観てくれないんだなぁと思うこともある。こんなにぼやけてるのに、なんとなく楽しんじゃうのかって。

 

榎本:パッケージとしてのスペックが高くて宣伝力があると、作品がぼやけてても通るってこともあるよね。でも、小さな映画ほど、なにをやりたいかってことと、どうやって訴えかけるかという戦略を意識したほうがいいと思う。オレはこう思ってんだってことを、どうやって観客に届けるかっていう意識的な戦略はするべきだと思うな。それと、映画の批評も育ってほしい。いまは映画を観た後にあんまり議論しない。「どうだった、あの映画?」「泣けた」「そう、俺はだめだった」で終わり(笑)。80年代には、高尚な作品を観にいって「この映画を観てる私が好き」って自分を慈しんでるのを僕は憎んでいたけど、それはまだましだったと思う。異なる意見にシャッターを下ろしちゃう状況はまずいな。苦手だと思っても、コミュニケーションの中で少しずつ鍛えていく。深く語る場はあったほうがいいし、そうじゃないと映画が痩せていく気がする。

 

KERA:映画にせよ演劇にせよ、例えば「ここが冗長だ」とか、確かに作り手がそう思うなら切るべきだけど、ある感触を生み出すために作り手がそれを必要だと思うかどうか。妥協して、観客がそう思うんなら切りましょうってことになると、観客サービスになってしまう。いろんな映画があって面白いのは、そこを大切に思う人がいるんだなっていうこと。いろんなものがあるから面白いんだと思いますけどね。

 

榎本:そういう多様性をすくい取るのも批評の役割だと思う。批評がなくなると、映画が数字むき出しになっちゃうから、批評で映画を救わないといけないけど、それがちょっと弱い。みんな大きな映画に流れていっちゃう。小さい映画もがんばるから、もうちょっと応援してくれよ。けなしも含めて注目してほしい。もっと深く語ろうぜ、と思うね。

 

KERA:あんまり大作を観てないけど、最近は、というか、相変わらずテレビドラマみたいな映画が多いんでしょ? 公約数的なニーズに応えるには、確かに楽しめるのかもしれないけど……。

 

榎本:ハリウッド映画は、最大公約数的にとことんやって誰が観ても面白い娯楽映画を作り、それがどこかで映画としてすばらしいところに達しているというのがスタジオシステムの創造性だった。でも、今の大手はまったくそうじゃない。観客も面白くもないのに、“祭り”のノリで映画観て、面白かったと思い込もうとしてるってのが腹立たしいんだよなぁ(笑)。

 

榎本憲男×ケラリーノ・サンドロヴィッチ | REALTOKYO

映画を演劇にした『黒い十人の女~version100℃~』

 

榎本:牧野省三が「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」を提唱したとよく言われます。映画づくりにおいて大事なのは、脚本、カメラワーク、演出と芝居の順だって。でも僕の本音はやっぱり1ドウサかな。脚本なんか、ある程度ちゃんと書けて当たり前。また、ホンが多少ガタガタしてても、演出と芝居がよければシナリオを凌駕するものができるのが映画だとも思う。でも、僕なんかはそのレベルにはなかなか到達できないから、シナリオは整然と書こうと思うタイプ(笑)。KERAはあんまり整ってないほうがむしろいいと思うタイプじゃない?

 

KERA:榎本さんを見てると、シナリオ作法からこぼれ落ちてくるものを逃してしまうんじゃないかというのを感じる。シネアストだから。でも、共有できるものもいっぱい。例えば、エルンスト・ルビッチのスクリューボール・コメディとか、ああいう類いのものは脚本ですよね。ホンと演者が両方そろってないと難しい。相手の言葉尻にセリフをかぶせていくから、編集じゃどうにもならなかったりする。やってみたいですよ。基本は、ともかく単純に早口でしゃべるということなんですよね。ゆっくりやってたら全然面白くない。

 

榎本:日本では、スクリューボール・コメディで成功した作品ってないよね。スクリューボール・コメディの条件って、まず登場人物がリッチであること。これが日本映画ではちょっと難しい。粋でセクシャルなマシンガントーク。これも難しい。30年代から50年代のアメリカって、検閲が厳しくてベッドシーンはダメだったから、それをマシンガントークや洗練された映像表現でやった。そして、女性上位。女がどっか壊れてて男をコケにしながら、あれよあれよという間にジェットコースター的な展開になる。この3つがそろってないといけない。かなりハードル高いね(笑)。でも、これってほとんどKERAの世界じゃないか。それから、KERAの芝居を観てると、長身の女性がちょっと背中を丸めて猫背になってるけど、あれはコメディの姿勢だよね。そういうところに、アメリカの古いコメディ映画の影響を感じる。言われたことない?

 

KERA:あります。うちの劇団ね、ちっちゃい男優が多いんですよ(笑)。デカイのは大倉孝二だけ。話は変わりますが、いま青山円形劇場でやってる『黒い十人の女~version100℃~』は原作が映画で、テレビ版にリメイクされたこともあるんですけど、シナリオはほとんど同じなのにやたら字幕が多くて。「その何ヶ月後」とかね。テレビだと、やはりわかりやすくしないといけなかったんでしょうね、集中して観てくれる人ばかりではないから。お芝居の場合は、付いてこれない人は放っとく。でも、テレビはそうはいかない。

 

榎本:演劇には「見立て」っていう技術があるんで、空間を飛ばすというのはわりと演劇の表現のほうが豊か。KERAの『黒い十人の女』はそのテクニックが満載された舞台だなと思った。時間をシャッフルするのは映画ではよくあるよね。タランティーノの『パルプ・フィクション』もそうだし、ほかにもいろいろ。すごいテクニックじゃないけど、映画はあんまりあざとくやるとヤラしい。そのさじ加減が難しいよね。これみよがしにやると格好悪いし。

 

ナイロン100℃『黒い十人の女~version100℃~』 | REALTOKYO
ナイロン100℃『黒い十人の女~version100℃~』

KERA:去年やった『2番目、或いは3番目』っていう芝居が架空の国の話だったんだけど、役者たちはそっちのほうがはるかに疲れたって言ってる。ちょっと狂ってる人の話でも、今回はなんとなく心理が作りやすいからそんなに疲れないらしい。でも、3時間の舞台がマチネとソワレの2回ある日は大変です。みのすけなんて、最後のセリフが絶叫みたい……。

 

榎本:あの男の役は、最初からみのすけさんで決まってたの?

 

KERA:そう、ナイロン100℃でやる以上はみのすけしかいないだろうと。

 

榎本:魂が抜けてるような感じって言うか、空っぽで何もないキャラクター。あの役は難しいよね。

 

KERA:なにもない人間を演じるのって難しいですよ。映画では、ひたすら隠して隠して隠しまくるっていうシナリオで、あの役の人物造形はほとんどわからない。舞台版を作るにあたって、もう少しどんな人間なのかを明確にすることにした途端、こりゃどうすりゃいいんだって。女性たちも、映画では6人は記号みたいな感じ。だからこそ面白いところもあるんですけど。みのすけが演じる風という男は、ただの無自覚なノーテンキ男として演じると植木等みたいになっちゃう。でも植木等のようなパワフルさは必要ない。本人もやる気あるんだかないんだかわからないけど、仕事はそれなりにこなしてる。詭弁でなく、なんで俺なんかにってほんとに思ってて。それをシーンごとに分析して、1人の男として説得力を持たせてくれっていうのは難しい。映画のほうは最後20分くらい岸恵子の話になっちゃうんで、それだけはやめようと最初から考えてたんだけど。なんでそうなるのか、理屈がわかんないんですよね。中越典子と緒川たまきの役は映画にはないから、最初のセリフがくるまで2週間くらい待ってるんですよ。どんな人物をやるのかもわからなくて不安だったと思う(笑)。

 

榎本:日本映画が物語を語り始めたとき、映画は芝居から物語の題材をもらってたのに、KERAは逆に映画の物語を芝居に引き込もうとしている。ああ、そうだ。太宰治の『グッド・バイ』をやりたいってツイッターでつぶやいてたでしょ。あれ、いいアイディアだと思った。戦後の混乱期という設定は、3.11以降の日本に移植できるかもしれない。美女なのに声がひどい女とのバディストーリーなんだけど、そのへんもKERAに合ってる気がする(笑)。『黒い十人の女』の冒頭でガラガラ声の女が出てきたときには、これは予行練習かなって思って観てたよ(笑)。

 

KERA:いや、全然意識してませんでしたけど(笑)。太宰で『グッド・バイ』だったら企画としてわかりやすいかな。榎本さんもそうだけど、僕も女性を主役にした映画が好きなんですよ。少なくとも、僕が書くならぜったいそのほうが面白くなると思う。映画も、『グミチョコ』は違うけど、ほかぜんぶ女性が主役ですよ。

 

榎本:男は常に合理性を求めるけど、女性は不合理なものを感情で押し通すことがあって、そういうところが人間存在として魅力的で面白い。一方で『黒い十人の女』のみのすけさんの役は合理性の世界で生きてるんだけど、彼自身はほぼ空っぽ。これも異様で面白かった。フィクションの世界のキャラクターには行動原理ってあるじゃない。特に主人公はこういう心情の持ち主で、こういう目的のためにこういう作法で行動してるっていうのが。ところが100%なりゆきだけの男なんだもの(笑)。それが不気味に出てるね。ところで、前から聞こうと思ってたんだけど、KERAはわりと過去ものが得意だけど、同時代性ってことをどう考えてるの?

 

KERA:あんまり生々しく「今」を描くっていうのは、その共通性を別の形に写し取るというようなことであれば別だけど、ちょっとアレルギーみたいなものがあるかなぁ。

 

榎本:ただ、いま生きてるキャラを書くからには、過去のものを書きながらいまの時代にリファレンスしなきゃいけないってこともKERAは意識していると思うんだ。例えば青山劇場でやった『ドント・トラスト・オーバー30』は執筆途中で戦争が起こって、それをどうにか作劇の中に取り入れようとして混乱しているのが観客の僕にもわかった。確かに結果的には未消化になったかもしれないけど、あの作品は、「KERA論」を書く上で避けて通れない興味深い演劇なんじゃないかという気がする。

 

いまこそブラックジョークを

 

ケラリーノ・サンドロヴィッチ | REALTOKYO
ケラリーノ・サンドロヴィッチ

KERA:なにをやるにしても、いまどうしてっていうことは聞かれますね。困っちゃうんだよな、特別「いま、どうしてこれを」なんて考えずにやってるから。そういうことって、もっと無意識に投影されるものだと思うけど、むしろ、震災後に書いた『黒い十人の女』は、震災の影響が及ばないように努力しました。それでもぜったいなにかしら影響はあるんですよね。

 

榎本:震災の後、僕はKERAがあんなに真面目にツイートしてるの初めて見て、なんでもかんでも笑い飛ばすKERAをしてこんなに真面目に語らせるなんて、震災はヒドいじゃないかと思った(笑)。

 

KERA:いろんな思いはあるけど、作り続けることで、その結果、貢献もできるのかなと。そのために作るわけじゃありませんが。僕なんかがボランティアに出かけても足手まといなだけだし(笑)。演劇にしろ映画にしろ、衣食住の後にくるものだから、ほんとに余裕がない人にはなんの効力もないじゃないですか。いまはこうだけど、こつこつやり続けていることが何年後かに実を結べば、それがいまの時間の使い方なのかなと思いますね。震災直後よりもいまのほうが、それでも生きていかなければいけないときに有効な手段としては、ブラックジョークとかすごく必要だなと改めて感じます。笑い飛ばしたりすることができないポジションにいる作り手もいっぱいいるわけで、それができる人間としてはやっていくべきだろうなと。夏にやる『奥様お尻をどうぞ』を書き始める段階になってそう思った。遠慮したものをやるよりはね。原発の基準値なんてコントになりやすいですよね。「それ、意味ないじゃないですか!」っていうツッコミ、「劇団健康」のころによくやったな(笑)。

 

榎本:僕はこの震災で日本人の世界観の何かが変わると思っている。KERAでさえ現実に対して実直にプロテストしているっていうことにショックを受けた。過去ものが好きなKERAが、今後はどう同時代性にコミットするのかということにすごく興味がある。ここから表現というものが変わって、面白くなる気がしてるし。

 

KERA:日本がここまでヒドいことになると、日本ほどヒドくないところで慌てふためく人を描くと一種のアイロニーになっていくというか、そんなことも考えたりして。真正直に風刺コメディを書く人は、ウソを隠してっていうのをそのまんま写し取ってコミカルにするだろうけど、僕はもっと意地悪に書きたくなりますね。榎本さん、この後は?

 

榎本:どうしようかと思って、いろいろ考えてる。1人でやるというよりレーベルを作るのもいいかなと思うし。映画を作るところまでできたけど、どうしていいかわからないっていう若い監督たちに、僕が面白いと思うか、僕が面白いと思わなくても世間が面白いと思うような作品には道を付けてあげたいなとも思う。KERAにもまた撮ってほしいと思ってるし。

 

『映画嫌い』ケラリーノ・サンドロヴィッチ/祥伝社/2009年3月発行 | REALTOKYO
『映画嫌い』ケラリーノ・サンドロヴィッチ/祥伝社/2009年3月発行

KERA:映画はやっぱり難しいですよ。演劇には演劇の難しさがあるけれど、映画って監督だけが最初から最後まで作品に関わって、周りの人は取っ替え引っ替え、入れ替わっていくでしょ。最後のほうは、「お前ら、この作品の成り立ちを知らないくせになに言ってんだ」っていう気持ちにもなるんですよね。芝居はそういうことがない。とりあえず、せーので始めて、せーので終わる。ほとんどの人が最後まで関わるから。劇団を始めた理由は、映画ができないからだったので。映画だと規模がデカ過ぎて。劇団なら、まぁなんとかできるだろうと。映画というものに対して、理想的な作り方ができれば素晴らしいだろうなという気持ちはずっとあるんですけどね。『映画嫌い』っていう本に書いたのは、本心ではあるんですよ。それでも、映画は魅力的だと思います。

 

榎本:映画に一度取り憑かれて「映画はもういいや」って心の底から思っている人間に、僕はまだ会ったことないよ。

 

KERA:映画は現場が楽しいですもん。あちこち行けるし。演劇は稽古場と劇場にこもりきりですから。『1980』をやる前に、生涯10本は映画を撮りたいなって思って。10本やったらやりたいことが概ねできるんじゃないかな。でも、実際に10本やったらまだまだやりたいことが出てくるんでしょうけど。うん、映画はやりたいですね。

 

榎本:KERAがまた監督やりたいって言ったら、僕は喜んでプロデューサーやるよ。

 

(※この対談は2011年5月27日に行われました。)

 

プロフィール

えのもと・のりお

1987年、銀座テアトル西友(現・銀座テアトルシネマ)オープニングスタッフとして映画のキャリアを始める。88年、同劇場支配人に就任。シナリオを学び、91年にATG脚本賞特別奨励賞受賞。その後荒井晴彦に師事。95年、テアトル新宿の支配人に就任。日本のインディペンデント映画を積極的に上映しつつ、荒井晴彦監督『身も心も』(96)をプロデュース。98年より東京テアトル番組編成を経てプロデューサーとなる。ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督『1980』(03)、『罪とか罰とか』(09)、井口奈己監督『犬猫』(04)などをプロデュース。最新作は、深田晃司監督『歓待』(コ・エグゼクティブプロデューサー)。脚本家としては、EN名義にて小松隆志監督『ワイルド・フラワーズ』(04)、筒井武文監督『オーバードライヴ』(04)、深川栄洋監督『アイランドタイムズ』(07)を執筆。2010年に東京テアトルを退職。本作品にて監督デビューを果たした。

 

Keralino Sandorovich

劇作家・演出家・映画監督・ミュージシャン。1982年、バンド有頂天を結成。翌年、インディーズレーベル「ナゴムレコード」を立ち上げ、筋肉少女帯、たま、カーネーションなどのレコードをリリース。85年に犬山イヌコ、みのすけ、田口トモロヲらと劇団健康を旗揚げし、演劇活動を開始。92年には健康を解散し、93年に劇団ナイロン100℃を旗揚げ。99年には同劇団の『フローズン・ビーチ』で岸田國士戯曲賞を受賞したほか受賞歴多数。03年、『1980』で映画監督デビュー。ほかの映画作品に『グミ・チョコレート・パイン』(07)、『罪とか罰とか』(09)などがある。音楽活動もKERA名義で継続し、現在はケラ&ザ・シンセサイザーズでヴォーカルを務める。音楽、演劇、映画など、ジャンルを越境した活動を展開中。

ナイロン100℃:http://www.sillywalk.com/nylon/

ケラ&ザ・シンセサイザーズ:http://synthesizers.syncl.jp/

インフォメーション

見えないほどの遠くの空を

6月11日(土)、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー予定

配給:ドゥールー、コミュニティアド

公式サイト:http://www.miesora.com/

榎本憲男twitter:http://twitter.com/chimumu

 

NYLON100℃ 36th SESSION公演『黒い十人の女~version100℃~

6月12日(日)まで、青山円形劇場で上演中

http://www.sillywalk.com/nylon/info.html

 

cube presents『奥様お尻をどうぞ』

7月30日(土)~8月28日(日)、本多劇場で上演

http://www.cubeinc.co.jp/stage/info/kera-furuta11.html

寄稿家プロフィール

ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラムを執筆(1998-2008)。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所のウェブサイトに、IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』を連載中。

寄稿家プロフィール

まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。