

9歳で預けられた児童養護施設での孤独と絶望。父親をじっと待ち望む日々を経て、やがてフランスの養父母の元へと旅立つまでの少女の葛藤と再生を描いた、自伝ベースの物語『冬の小鳥』で長編デビュー。幼い自分自身を投影した作品を通して伝えたかったこととは? 公開前に来日した監督に聞いた。
映画化によってようやく訪れた解放
まず、ジニ役のキム・セロンを始め子供たちのキャスティングがすばらしいですね。
70年代風の子供を探していたのですが、ソウルの子役たちは都会的で洗練されていたので、イメージに合わなくて。郊外の小学校に出かけてたくさんの子供たちに会いました。親密な空気も欲しかったので、いくつかの学校を回って仲良しの子たちを集めたりして、キャスティングには5ヶ月間くらいかけました。
半自伝的作品とのことですが、フランスのご家族はどんな感想を持ったでしょう。
父は数年前に亡くなっているのですが、母と兄弟はとても感動したと言ってくれました。何年も経って、これまで語られなかったことの一部をやっとわかってくれたかなと。話したくても話せなかったり、コミュニケーションが取れなかったことが、映画を観てもらったことで、私がどんな経験をしてどんなことを考えていたか、その一部をようやく理解してもらえたように思います。すでにフランスでは公開されていて、観客の中には養子の立場でご覧になった人もいましたが、養子をもらった養親の立場の人も多かったようです。そういう人たちは、「うちの養子のことが、これまで以上に深くわかるようになった」と言っていました。
とても心が痛む経験だったと思います。長編デビュー作で、あえてそこに立ち戻ろうと思ったのは?
心の傷であり、向き合うことをずっと避けてきたようにも思いますが、映画でこのテーマを扱うことで一度正面から向き合ってみよう、そんな決意で取りかかりました。語りたかったものが語れたので、周囲の人たちに理解してもらえるようになりましたし、踏み込んではいけないと思っていた感情がわかるようになったと言ってもらえました。この映画は、私だけでなく、家族や周囲の人たちにも解放をもたらしたと思います。

壁に徹した韓国の巨匠イ・チャンドン
脚本は、初稿をウニーさんが書いて、2稿をイ・チャンドンさんと一緒に作り上げていったそうですね。印象的なラストシーンは、初稿から決まっていたのですか。
はい、ラストは最初から決めてありました。『シークレット・サンシャイン』の上映に伴ってフランスに来ていたイ・チャンドンさんに初稿を見てもらったのは、韓国人としての意見を聞いてみたかったからです。もっとドラマ性を持たせたシーンを入れたらどうかというアドバイスがあり、書き換えのときにコラボレーションしたのですが、彼いわく壁打ち練習をするテニス選手がウニーで、僕は壁だと。何か疑問に思ったりアイデアがあったりするとイ・チャンドンさんに聞いてみるのですが、跳ね返してもらったボールをどう打ち返すかは私次第。私の意図をよくわかってくれていて、壁役に徹して下さったので、衝突はありませんでした。いちばん苦労したのは、ジニが自らを土に埋めるシーンです。死にたいという欲求を形にするにはどうしたらいいか。リストカットや首つりは大人のやり方で、子供は死に方すらわからない。だから、あのようなシーンになりました。
イ・チャンドン監督作品の常連、ソル・ギョングさんやムン・ソングンさんも出演されていましたね。
イ・チャンドン組の俳優さんたちはノーギャラで出てくれたんです。ソル・ギョングさんが演じる父親の顔がずっと隠れていて、最後にちらっと映ることは、初稿から決めてありました。最後に1度だけ顔が映るのは「こういう人がお父さんだった」という強い記憶を印象づけよう、具体性を持たせようと思ったから。ジニ役のキム・セロンは演技経験が浅くて、ソル・ギョングさんが誰だか知らなかったのですが、彼女のお母さんがセロンに「お父さん役の人はとても有名な俳優だよ」と教えたところ、そんなすごい人が自分を対等に扱ってくれるということで自信が湧き、演技ができるようになっていったんです。ムン・ソングンさんは院長役にしたかったのですが、スケジュールが合わず、医師役で登場してくれました。
過去に一緒に仕事をされているオリヴィエ・アサイヤス監督から、何かアドバイスは?
今回は、特になし(笑)。最初に映画の世界に触れさせてくれた人ですが、それからはほかの道を歩んでいるので関わりはないんです。私に映画の世界を発見させてくれた重要なひとりですけれど。映画をたくさん観るという、映画人としての姿勢を教えてくれました。
撮影時に、ビジュアル面で気を配ったことは?
こだわったのは、ジニの主観的なものの見方を見せられるように、彼女の視点の高さにカメラを置いて撮るということ。取り囲む環境の中でジニがどうなのかという画にしようと。そして、内面の感情がどう進化していくかということを追えるように気をつけながら撮りました。最初はお父さんの顔が見えなかったり、ジニの目の高さで上や横が切れていたりしますが、施設に入って少しずつ適応するにつれて視野が広がっていく。ジニの気持ちの変化を、視野の広がりで表すと同時に、コントラストや色調にも配慮しました。昔の話なので、少し色あせたような感じもありながら、子供時代の思い出ということで淡い優しい色合いになるように。彼女たちが置かれた環境は過酷で厳しいけれど、それらと対比させるようにメランコリーや悲しさを表し、イメージの対比や撮り方で感情が伝わるように気を配りました。
音楽はほとんど使っていませんね。
そうです。外からの演出ではなく、内面を映し出したかったので、なるべく音楽は避けようと思ってあえて排除しました。

大切なのは、生きる力を自分で見つけること
日本では養子縁組が少なく、親元で暮らせない子供たちの多くは施設で育ちますが、子供が新しい家族と生きていくことについてどうお考えですか。
どういう家庭が引き取るかによって大きく違ってきますが、ポジティブに捉えています。日本では施設で育った人に会う機会がなかったのですが、私自身は、親に捨てられた苦しみや施設の友人との別れという苦しみがある一方で、施設にずっと残ることへの恐れもありました。経験から言うと、施設に引き取られて大人がケアしてくれていても、そこに残る限りずっと捨てられたままという気持ちがあって、特定の親に愛情を注がれる経験が欠落してしまうので、やはり新しい家庭で生きていくことはいいことだと思います。
国際養子縁組は、韓国とフランスでどんな違いや変化があるでしょう。
韓国では、親と暮らせない子供が2歳くらいになるとどんどん海外に養子として出すことをやってきましたが、90年代からは国の経済状況がよくなり、自国で子供たちの面倒をみようという動きになりました。今は国際養子縁組ではなく、施設で育つことが一般的です。韓国の施設を訪ねましたが、とてもきれいで高級感さえ漂う所もあるくらいです。フランスでは今も一般的に行われていて、最近はロシアやブラジルからの養子が増えています。捨てられる子供は後を絶たないので、養子縁組は増えているのが現状。増え続けることで条件が厳しくなったり、受け入れ希望の家庭の審査に時間をかけるようになったり、少しずつ環境も整備されているようです。私が養子として渡仏したころは今よりもずっと楽だったと思います。養子として育った人が証言する機会も増えているので、話を聞きながら制度の改善が進んでいます。
日本にも、様々な理由で親元から離れている子供がたくさんいます。メッセージを届けるとしたら?
映画の中でも見せていることですが、園長さんや寮母さんや周囲の大人たちが温かく見守っても、それだけではダメ。子供自身が自分で生きる力を見つけることが大切なので、私からのメッセージというのは難しいですね。ひとつ挙げるとしたら、さっきもお話ししたジニが自分を「埋葬」するシーン。衝動的にもう死んでしまいたいと思いつつ、でもやっぱり私は生きたいと願う。あのシーンに思いが込められています。
次回作にも大いに期待がかかりますが、予定はありますか。
今はまだ秘密。サプライズにしてあるんです(笑)。

プロフィール
Ounie Leconte/1966年、韓国ソウル生まれ。9歳のときにパリ郊外サンジェルマン=アン=レー在住の、父親が牧師をしているプロテスタントの家庭に養女として引き取られた。その後、パリの服飾専門学校ステュディオ・ベルソーでドレスデザインを学び1989年に卒業。学生時代にはいくつかのアマチュア短編映画に出演した。1990年にシャニ・S・グレウォール監督の『After Midnight』に出演後、オリヴィエ・アサイヤス監督の『パリ、セヴェイユ』(91)に出演するなど女優として活動。同年、自分のルーツを探す孤児の娘を演じるため、渡仏後初めて韓国に戻る。この撮影についての写真と記事が新聞に掲載され、記事を読んだ実母が訪ねてくるという出来事があったが、出演するはずだった映画『Seoul Metropolis』は未完のままになっている。その後は、オリヴィエ・アサイヤス監督の『Une nouvelle vie』(93)で衣装デザインのアシスタントとして、ソフィー・フィリエール監督の『Grande petite』(94)では衣装デザイナーとして参加。映画界に身を置きながら自身で脚本・監督を担当した作品を作りたいという思いを徐々に募らせ、2004年に、中絶を題材とした短篇『Quand le nord est d'accord』を監督。2006年に、フランス国立映画学校FEMISが開講しているシナリオ養成講座(映像・演劇分野での2年以上の経験者から選考)に参加し、『冬の小鳥』の脚本を執筆した。
寄稿家プロフィール
まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。