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266:大友良英のSIAF2017ディレクター就任
小崎哲哉
Date: October 07, 2015

札幌国際芸術祭(SIAF)2017のゲストディレクターに、大友良英が就任することが発表された。SIAF2014の坂本龍一に続いて、2回続けて芸術家が担当することになる。2回とも、まっとうな見識に基づいた適切な人選だと思う。大友にEメールで送った質問と、その回答(改行箇所に読点を入れた以外は原文のママ)を交えつつ私見を綴ってみたい。

 

 

大友良英(撮影:佐藤 類)| REALTOKYO
大友良英(撮影:佐藤 類)

アートフェスティバルのディレクター(芸術監督)は、専門職であるキュレーターが務めるのが一般的だ。主題の設定、アーティストの選定と交 渉、会場の選定と交渉、行政や地元住民との折衝、予算の計上、作品の搬出入と管理、展示設営、広報宣伝などすべての業務において、極めて高度なスキルが要求される職務であるからだ。

 

だが美術館インハウスのキュレーターは、日々の業務に追われて非常に忙しい。出張にあまり出られず、世界のアートシーンに目配りが行き届かない者も結構いる。数年前に、国際的に活躍するあるアーティストから「僕らがやるほうが絶対にいいものが出来る」と自信たっぷりの言葉を聞かされたことがあるが、国境を超えて活動する表現者のほうが海外事情に通じていて、人的ネットワークが広いことは確かにありうる。他方、「名選手、必ずしも名監督にあらず」というのも真理かもしれない。そこで第1の質問。

 

表現者がフェスティバルの芸術監督になることについて、大友さんが考えるメリットとデメリットを挙げて下さい。

 

メリット、デメリットということではないですが・・・あくまで個人的な話ですがやはり、自分自身の音楽なり作品なりをつくる時間が一番ほしいとおもっているので、こうした役目を引き受けるというのは、表現をする側の人間にとっては、リスクもあるし、かなりきついだろうなと予想してます。それでも引き受けたのは、現状の社会のありかたに、とりわけ震災後ですが、いろいろと思うところがあるからです。体力があって、こうした引きがある今のうちに、わたしだったら、こうやる・・・というのを、市民のみなさんや、行政の人たちと向き合いながら、やってみようと考えています。わたしと組む、行政の人からみれば、こうしたことのプロであるキュレーターと組むのとは、まったく違う苦労もあると思います。ただ、わたしが今回の大きなテーマのひとつにしている「専門領域の人だけでつくらない」のなかには、そもそものディレクターが専門家ではないという意味も入ってると考えています。前例のあることをやるのではなく、ひとつひとつ何がいいのかを、関わる人たちと考えながらやってくようなプロセスをつくっていければいいなと思っています。

 

実は最近では、芸術家がディレクターを務めるケースがそれなりに出てきている。上記の坂本のほか、すぐに思い出すだけでも、蔡國強による『金門トーチカ雕堡芸術館—18の個展』(2004年)や、アニッシュ・カプーアによるブライトン・フェスティバル(2009年)がある。ここ数年ではベルリン・ビエンナーレ2012のアルトゥール・ジミェフスキ、ルールトリエンナーレ2012-2014のハイナー・ゲッベルス、ヨコハマトリエンナーレ2014の森村泰昌らのキュレーションが話題になった。ジミェフスキのベルリン・ビエンナーレは評判が悪かったけれど、指揮下に優秀なキュレーターのチームを組織すれば、質の高いフェスティバルを企画・制作しうることは実証されていると言っていいだろう。

 

そして芸術家がディレクターを務める場合、上述の職務で期待されるのは、とりわけ主題の設定とアーティストの選定だ。その意味では「プログラミングディレクター」と呼ぶほうが適切かもしれない。SIAF2014では「都市と自然」というテーマのもとに64組のアーティストが参加した。現代アートの展示のほか、高谷史郎の『CHROMA』やシディ・ラルビ・シェルカウィ+ダミアン・ジャレの『BABEL』などの舞台芸術が上演され、いわゆるメディアアートもフィーチャーされた。本人が病に倒れたために中止になったが、坂本龍一とAlva Notoによるライブも予定されていた。いずれも、ゲストディレクターの知識、経験、センスが活かされた結果だろう。そこで第2の質問。

 

SIAF2014の坂本龍一さんのディレクションをどう評価していますか。SIAF2017でもメディアアートは重視するのでしょうか。

 

わたしが選ばれた以上は音に関わるもの、音楽が数多くはいってくると思います。その中にはメディアアート的なものも入ってくると思いますし、現代においてなんらかの表現をあつかう以上はメディアアートが示してきた領域は不可欠なものだと思っています。とはいえメディアアートにとりたてて大きなフォーカスを当てるということはないと思います。現在、前回のSIAFで坂本さんが何をやられたのか、何をやろうとしたのかを自分なりに検証しているところです。その上で、前回から引き継ぐ必要があるのはなにかを考慮しつつ、自分自身の方向性を明確に打ち出していければと思っています。できれば坂本さんの来日時に直接お会いして、いろいろ聞ければと思っています。

 

ところで、専門職のキュレーターの中には、現代アートにしか関心がなく、音楽や演劇やダンスに通じていない「美術オタク」も少なくない。ステートメントなどで格好のいいことを書いていながら、実は最低限必要と思われる文学や映画などの素養に重大な欠落があるキュレーターもいて唖然とさせられることがある。もちろん、芸術家(表現者)でも同じことは起こりうるけれど、上に名を挙げた人々は非常に視野が広く、だからこそ領域横断的な試みや協働が成功していたように思う。最後の質問は協働について。

 

ディレクターメッセージに「(専門家と非専門家の)両者の扉を開く」とあります。具体的には観客参加型パフォーマンスのようなことでしょうか。

 

観客参加型ということではなく、そもそもフェス(祭り)をつくる時点からアーティストに限らず、広く興味をもったひとたちと協働していこうという発想です。もちろん専門家による作品や音楽もしっかり見せていきますし、中には観客参加型のものもあるでしょう。でも、そうした個々の作品のありかただけのことではなく、そもそも芸術祭というものの作りの土台から専門家だけでなく、多くの人との協働を目指します。そのために2016年に何を準備して行くかが重要と考えています。

 

 

フェスティバルFUKUSHIMA! 2013 納涼!盆踊り(2013年)の様子(撮影:地引雄一)| REALTOKYO
フェスティバルFUKUSHIMA! 2013 納涼!盆踊り(2013年)の様子(撮影:地引雄一)

2011年の震災と原発事故の直後に、大友は仲間とともに「プロジェクトFUKUSHIMA!」を立ち上げた。「多くの人との協働」とは、言うまでもなくこの経験に基づいた発想であり、SIAF2017の開催に当たっては、2011年以降に培われたノウハウとネットワークが活かされることになるに違いない。

 

実際、大友はメールの最後に「やはり、こうしたことを受けようと思ったのは震災体験が大きかったと思います。」と記して震災による影響を強調している。アートが社会批判を行う必要は必ずしもないし、震災を取り上げるのにアートは「速いメディア」とは言えない。だが、「揺れる大地」を主題とし、大友自身も参加したあいちトリエンナーレ2013や、福島原発至近の帰還困難区域内で開催中の(したがって、実地で鑑賞することができない)『Don’t Follow the Wind』展など、精緻に企画構成された展覧会もいくつか出てきている。いわゆる「記憶の風化」を防ぐためにも、SIAF2017には大いに期待したい。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。