
KAAT×地点の共同制作作品第5弾 『三人姉妹』を観た(3月20日)。地点が『三人姉妹』を上演したのは2003年が最初だが、今回の公演は「初演とはまったく違うものになってしまいました」と地点代表で演出の三浦基は述べている。続いて三浦は「これから始まる『三人姉妹』こそが、我々が苦労の果てに勝ち取った真のリアリズム演劇なのです」と大見得を切っている(いずれも上演前に配布されたリーフレットより)。誇大妄想狂的な言辞と思えるかもしれないが、そうではない。これはこの作品と作者チェーホフについて、そして三浦の演出観と演出法について考える上で、非常に重要な言葉だと思う。

その少し前に、ケラリーノ・サンドロヴィッチの上演台本・演出による『三人姉妹』も観に行った(大阪公演)。ケラの演出ではなくマーシャを演じる宮沢りえがお目当てで、りえちゃんファンとしては堪能したけれど、率直に言ってケラの演出には拍子抜けした。自作を演出する際の奔放で突き抜けた感じはみじんもなく、伝世品の名物お道具でも拝見しているかのように、チェーホフをおそるおそる扱っている。ちなみにケラ版は完全な商業演劇で、三浦版とは正反対と思えるほどに違う。例えば——
上演時間:2時間30分 vs. 1時間15分
チケット料金:S席¥9,500 A席¥7,500 vs. 一般 3,500円
パンフレット:1,000円 vs. 無料(リーフレット)
キャスト:豪華 vs. 地味(失礼!)
まあ、このしょーもない比較は(上演時間の違い以外は)読み流していただくとして、見過ごせないのはパンフレットに掲載されているケラの文章である。最後の段落を丸ごと引き写してみよう。「今回も基本は『オーソドックス』でいく。オーソドックスの『強度』が閾値を越えて内破するような上演になれば、と思う」。三浦に劣らず肩に力の入った文章だが、ここでは「オーソドックス」がキーワードである。では、三浦の言う「リアリズム演劇」とは何か。ケラの言う「オーソドックス」とは何が違うのか。地点の役者の演技は、例えば平田オリザが言うリアリズム(「現代口語演劇」)とは正反対だが、それでも「リアリズム演劇」だと断言するのはなぜか。

KAAT3階の中スタジオ。プロセニアムではないから幕はなく、装置を含む舞台全景が最初から見えている。開演予定時刻を5分過ぎた頃合いに、ショスタコーヴィチの「セカンド・ワルツ」が流される。観客はおしゃべりを止め、居住まいを正すが、時代がかったワルツがひとしきり奏でられた後に「開演に先立ち、お客様に〜」という例のアナウンスが始まる。芝居が始まったのではなく、音楽は2ベル代わりだったのだ。いや、正確に言うと、音楽や劇場のアナウンスは、本来の目的よりも、地点作品が常に前面に出す異化効果のためにこそ用いられている。三浦の芝居はすでに始まっている。
平床の手前に箱形の装置が置かれている。幅は10数メートル、高さは2メートル強、奥行きは人が1人入れる程度で、ベルリンやイスラエル西岸の分離壁を想わせる巨大な直方体だ。金属製のフレーム以外の素材は透明なガラスだか樹脂だかで、一部は木の扉でふさがれている。表面には骨董の贋物に古色を付けるかのように白い粉状のものが塗布され、舞台奥が不完全にだが透けて見える。いちばん奥には鏡が設置されていて、観客は目を凝らせば自分自身の姿を遠くに見ることになる。天井を見上げると、本物か作り物かはわからないが、人の背丈ほどの細い木が20本ほど逆さまにぶら下がっている。

いま一度「セカンド・ワルツ」が流され、上手奥から役者たちが現れる。全員が床に這いつくばり、芋虫の群れのように進み、くんずほぐれつしながら(不)透明な巨大直方体の前までやって来る。ぶつかっては離れ、離れてはぶつかったりしながら「今日は〜」で始まる台詞がランダムに発話される。「今日は暖かで……」「今日はあたしの“名の日”だった……」「今日あんたは、いかにも晴れやかで……」などなど。幾度も強調される「今日」が観客の脳裏に刻み込まれた頃には、戯曲を前もって読んでこなかった者にさえ、誰が誰を演じているのかは大体わかるようになっている(と思う)。
三姉妹は舞台前面にいることが多い。唯一の男きょうだいアンドレイ(石田大)と、その許嫁で後に妻となるナターシャ(伊東沙保)は概ね後方に退いている。ケラ版を含む多くの(正統的な)演出では、三姉妹と折り合いの悪いナターシャが狂言回しとして強調されるが、三浦版のナターシャは影が薄い。おかっぱで、細いウエストを際立たせる白いツーピースを着ていて、人間離れしているというか、レプリカントか、是枝裕和が映画化した業田義家の漫画『空気人形』の主人公のようだ。アンドレイと戯れている最中に上げる声も、大人ではなく赤子か、あるいは猫のように幼い。

三姉妹はそれぞれに存在感がある。特にオーリガ(安部聡子)は、長姉としての包容力と愛情を示す一方、折々に、教職に勤しんで恋ひとつ叶わなかったオールドミスの哀しさと悔恨を滲ませる。ろくでもない俗物が夫(小河原康二)とはいえ、兎にも角にも結婚することができた(そして別の男への恋心を告白しさえする)次女マーシャ(窪田史恵)や、相手を愛してはいないとはいえ、トゥーゼンバフ(岸本昌也)と結婚してモスクワへ旅立とうとする三女イリーナ(河野早紀)を労り励ましつつ、随所に嫉妬心を露わにする。
舞台上に現れたすべての人物がくんずほぐれつするが、圧巻と言えるのは後半、十数分かもしかしたらそれ以上続く、三姉妹のくんずほぐれつだ。いや、その場面のくんずほぐれつっぷりは、ひとことでは足りない。くんずほぐれつ、ほぐれつくんず、ほぐれたと思えばまたくんず……とでも言わなければその迫力と徹底性は表現できないだろう。実際、三姉妹は暴力的につかみ合い、エロティックに絡み合い、愛憎を交えて叫び合い罵り合い、声を張り上げ、相手を取り違え、狂ったようにのたうち回る。オーリガの冷静、マーシャの熱狂、イリーナの夢想が混じり合い、あるいは別人に乗り移り、もとに戻りして、誰が誰なのか、当人たちにも観客にもわからなくなる。

他方、三浦お得意の異化効果は、役者のくんずほぐれつにも観客を(長くは)感情移入させない。突然ショスタコが、本物のベルが、鐘の音が鳴り響く。役者のひとりが(不)透明な巨大直方体の壁を割れんばかりに叩き始める。本来なら物語の終幕を告げる銃声は、開幕後20分も経たない内に一発鳴り、最後までに4度も鳴るが、一度は砲声だ(つまりトゥーゼンバフは4度死ぬ)。役者が力を込めて押して移動させる巨大直方体は、その馬鹿馬鹿しいまでの大きさ重さによって、「異」たる効果を最初から発揮している。いや、もしかしたら、役者が向き合い、我々も眺め、はるか彼方に観客自身を映す鏡を透けて見せる巨大直方体は、登場人物を、そして我々を過去へ向き合わせる装置なのかもしれない。
終幕近くに、天井に吊られていた木が1本だけ落下する。木に根っこは生えていない。チェーホフが描いた、彼の時代の地を這う者たちの根無しにして宙吊りにされた人生を、この木は象徴している……と思った観客は次の瞬間に気が付くことだろう。我々は地を這う者を上から目線で観ていたが、我々こそ、天からあるいは鏡の世界から観られていたのではないか。我々こそ、根無しにして宙吊りにされた人生を送る地を這う者ではないか。現に芝居の中で、トゥーゼンバフとヴェルシーニン(小林洋平)は「二、三百年のちどころか、たとえ百万年たったところで、人の生活はやはり元のままでしょう」「実際のところ、今あるものとかつてあったものの間には、どんな違いがありましょう! もう少し時がたってみれば、かりに二、三百年もしてみれば、現在われわれの送っている生活も、やはり恐怖と憫笑をもって眺められるでしょうし、現在の一切は、ごつごつした、重くるしい、すこぶる不便な、そして奇妙なものに、見えることでしょう」と声を揃えている。

芝居を観終わって、圧倒的に印象に残るのは3人の姉妹である。ナターシャではない。ましてや男たちではない(長広舌を振るうヴェルシーニンは例外だが、彼とてもマーシャの道ならぬ恋の相手として、つまりマーシャの存在感ゆえに自らの存在感を示しうる)。『三人姉妹』は、その名が示すとおり、ほかの誰でもなく、オーリガ、マーシャ、イリーナという3人の姉妹の物語なのだ。だが同時に、劇場は日常と地続きの場所であり、だからこそこの体験はリアルなのだと納得させるために、美術、照明、音楽、音響、衣裳などのあらゆる演出的効果が動員されている。地点の芝居は、身体動作(演技)の演出と異化効果の導入が、ともにあって初めて成り立っている。
三姉妹が口で発する建前の裏には本音があるが、それは戯曲には書かれていない。三浦は演出家として『三人姉妹』をそのように読み解き、役者を「くんずほぐれつ」させることによって自らの解釈をリアルに表現した。リーフレットに書かれたことは妄想でも誇張でもなく、冷静な自己評価であると思う。地点の『三人姉妹』は「真のリアリズム演劇」であり、チェーホフの意図したところを、現代の観客にふさわしい形で正確に伝えているという意味で、「オーソドックス」(正統)な演劇であるとも言えるだろう。二、三百年もしてみれば、それは自明のことになるのではないか。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。