
21_21 DESIGN SIGHTで開催中(10/5まで)の『イメージメーカー展』は、同館に珍しく、一見現代アート的な展覧会である。展覧会ディレクターは、かつてパリのカルティエ現代美術財団でキュレーターを務めていたエレーヌ・ケルマシュター。だから不思議ではないと思われるかもしれないが、実は、一般に現代アーティストと認められている作家はひとりも参加していない。デヴィッド・リンチのように画家としてカルティエなどで個展を開いたことがある者もいるが、基本的には、映画監督、グラフィックデザイナー、舞台演出家、写真家、シューズデザイナーとまずは見なされている表現者たちである。
作品点数が多く、展示空間に占める割合も大きいのは、デザイナーのジャン=ポール・グード。展覧会名は、グードが自らの創作活動を特徴づける言葉として用いているものだというが、確かに参加作家は全員「像」を作る専門家だ。彼らが、どのように先端的な像を作っているのか、それを見せるのがこの展覧会の狙いだろう。マルセル・デュシャンが否定した「網膜」的な作品の復権を目指していると言ってもいいかもしれない。
だが、網膜にインパクトを与える像は半面、知的なレイヤーを必ずしも十分に備えていない自己完結したものが多く(だからこそデュシャンは網膜的な作品を否定した)、それゆえに想像力を殺してしまうことがある。サミュエル・ベケットは「死せる想像力よ、想像せよ」と書いたが、想像力(イマジネーション)を殺すような像(イメージ)はまさに反デュシャン的、反現代アート的である。だからこの展覧会は、現代アートの行き過ぎたレイヤー中心主義に異を唱え、違う道を示すために企画されたとも考えられる。とはいえ、悪食のイメージイーターには、ほとんどの作品は食い足りないのではなかろうか。
参加作家の内、ロバート・ウィルソンだけが、網膜と想像力の双方をバランスよく刺激しようと努めている。フィリップ・グラスと協働して作ったオペラ『浜辺のアインシュタイン(Einstein on the Beach)』や、最近では同じくオペラ『マリーナ・アブラモヴィッチの生と死(The Life and Death of Marina Abramović)』の演出などで知られる現代を代表する演出家は、映像作品も作っていて、『ビデオ・ポートレイト』シリーズから7点を出展した。ドイツの貴族の家系に生まれた少年や、モナコのカロリーヌ王女を撮影したものも素晴らしいが、高行健(ガオ・シンジェン)を被写体としたものが白眉である。

高行健は1940年、中国の江西省に生まれた小説家、劇作家、演出家、批評家、画家だ。ベケットやウジェーヌ・イヨネスコらの翻訳者として西欧の不条理劇に影響を受け、実験的な戯曲を発表したが、そのために国内で批判を受け、1989年の天安門事件後にフランスに政治亡命した。1998年にフランス国籍を取得し、2000年には中国人作家として初めてノーベル文学賞を受賞。その後、中国では書籍は発禁となり、戯曲は上演を禁止されていたが、最近では戯曲選集が刊行されているという。ウィルソンとは、同じ創作者、とりわけ演劇人として互いに認め合う仲だそうだ。
ウィルソンの『ビデオ・ポートレイト』シリーズは、その多くが縦長のモニターを用いたカラー作品である。「高行健」(2005年)も縦長モニターだが、画像は白黒で、尺は4分強(ループ)。真正面から高の顔をドアップで捉えている。背景は暗く、頭頂部に残るはずの髪の毛もほとんど見えず、目を閉じた高の顔はデスマスクのように見える。閉じた目を開くまで高はほぼ不動で、ときおり柝の音に似た音が響くほかは無音に思えるが、耳を澄ますと背後に、モリアオガエルや秋の虫の鳴き声のような、あるいは川のせせらぎや泡音のような楽音が聞こえる(音楽:ピーター・セロン)。
しばらくすると画面の左上から右下に、つまり高の額の右上部から左頬の真ん中あたりに向かって、黒い文字が書かれ始める。無論、映像を投影したか、あとから合成したものだろうが、あたかも透明人間が透明な毛筆を手に取り、高の顔=デスマスクにゆっくりと文字をしたためてゆくように見える。文字は「La solitude est une condition nécessaire de la liberté」と読める。フランス語で「孤独は自由の必要条件である」という意味だ。しばらくすると文字は消え始め、それに伴い、高は閉じていた目を開き始める。文字が完全に消えると目も完全に見開かれ、だがしばらく経つと再び閉じられる……。




2011年に刊行された『Robert Wilson from Within』に収録されたインタビューによると、この一文は撮影当日、ウィルソンに請われた高が、その場で考え出したものだという。いかにも高らしい、そしてウィルソンら才能ある表現者のありようにも通じる言葉だと思うが、この一文には後日談がある。2008年に国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が世界人権宣言60周年を記念して、オムニバスの映画を作った。ウィルソンも依頼され、高の顔とこの一文からなる3分の映像を提供した。ところがOHCHRは「この一文は人権とは相容れない」と言って、ウィルソンが撮影した映像をカットしたというのだ。
「連中にとって『人権』は連帯(solidarity)を含意するものであって、だからあの一文の趣旨は人権のこの側面とは正反対だと言いはるんだ。およそ信じがたい解釈だね」
日本の学生運動に関心がある者なら、詩人・谷川雁の「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉を思い出すかもしれない。ともあれ高は、憤りながらも孤独(solitude)を徹底的に擁護する。
「孤独は、人間が真の大人になるために、内省の成熟を実現するために必要なものだ。ボブ(ウィルソン)にはそれがよくわかっていて、だからあの一文を評価してくれたんだと思う。(中略)彼は、孤独が精神を成熟させ、内省を目覚めさせ、したがって人が物事を考え始めようというときに、まずは孤独を経験しなければならないということを理解していた。彼は偉大なアーティストだ。私は、あらゆるアーティストはこの孤独の経験がわかっていると思う。それは創造性の条件なんだ」

このインタビューには高の芸術観と人生観がよく表れていて、ウィルソン作品(いや、ウィルソン+高のコラボレーションと呼ぶべき作品)の理解にも役立つことだろう。だが、事前にインタビューの内容を知らなくても、作品は鑑賞者の想像力を大いに刺激する。それは、多くは、皺が刻まれた高の顔をほとんど余白のない白黒の映像で見せ、上述したようにデスマスクを連想させつつ亡命作家の複雑な人生に思いを馳せさせる、という視覚的な手法に因っている。そしてテキスト。目を閉じ、内省する作家の顔に投影される文章は「孤独」に始まり、作家が目を開けたときに「自由」で終わる。そこから想像されるものは、いかなる衝撃的な映像よりも示唆に富み、豊かなことだろう。
ベケットの散文作品『イマージュ』(像)は、最初から最後まで句読点が一切なく、最後は「これでできた おれ作った イメージを。」(長島確訳)と終わる。孤独の内に目を閉じた作家が、自由を感じながら作り上げたイメージはどんなものだったろう。それを想像させてくれるというだけで、この作品に感謝したくなる。ウィルソンと高は、この展覧会への他の参加作家と同様の意味で「イメージメーカー」なのではない。彼らは、観客にイメージメイキングさせる、いわば「イメージメーカーメーカー」なのである。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。