
京都の拙宅の近く、東山ドライブウェイの頂上に将軍塚という塚がある。「将軍」とは徳川家康でも足利義満でも源頼朝でもない。塚が造られたのは平安建都の際のことで、桓武天皇が土で出来た将軍の像を埋めて新都を鎮護させたのだという。ここまで書けば、歴女・歴男でなくとも誰のことかはわかるだろう。征夷大将軍・坂上田村麻呂である。
田村麻呂が陸奥(みちのく)に派遣され、「まつろわぬ民」蝦夷(えみし)を征討したのは延暦20年、つまり西暦801年のことだった。以来、陸奥は「中央」から見た「地方」と位置付けられ、征討される以前の歴史は、中央の「正史」によって斥けられてしまう。幕末に「東北」という呼び方が生まれ、明治期に定着するが、これはもちろん都から見ての呼び名である。同じように中央から見ての方角名で呼ばれる地域に「南西諸島」があり、東北との(負の)共通点が少なからずあるが、ここでは南西については論じない。
田村麻呂と東北の話から書き起こしたのは、アーティスト三瀬夏之介と民俗学者・赤坂憲雄の対談を司会することになったからだ。奈良に生まれ、京都で学び、フィレンツェに滞在したこともある三瀬は、2009年に山形に移り住み、東北芸術工科大学で日本画を教えつつ『東北画は可能か?』というプロジェクトを進めている。同じく東北芸工大で震災の年まで19年にわたって教鞭を執り、現在は学習院大学教授の赤坂は「東北学」の提唱者であり、震災後は東日本大震災復興構想会議の委員、ふくしま会議の代表理事、福島県立博物館の館長などを務めるかたわら、復興のための『みちのくアート巡礼』の可能性を探っている。また、三瀬のモチーフのひとつに、田村麻呂を想わせる巨大な武神像(大魔神像)がある。赤坂は専門家として、田村麻呂による征討以前、つまり中央政権による支配以前の東北史がいかなるものであったのかを追究し続けている。



「東北画」にせよ「東北学」にせよ、それらは一地方の固有性の探究にとどまらないだろう。上でも触れたように、ことは中央と地方、中心と周縁、主流と傍流、正史と稗史、全体と個というような関係性に関わっている。例えば三瀬は上述のサイトに「この『東北画』というネーミング設定の裏にはもちろん『日本画』への問題意識がある」と記し、「私と『日本画』の関係とは、『私はほんとうに日本人なのだろうか?』という切実な問いといつも深く結びついていたのだ」と続け、「私がもともといた場所は『奈良』の『関西』の『日本』の『アジア』の『地球』の… そして今住むここは『山形』の『東北』の『日本』の『アジア』の『地球』の『宇宙』のどこ?」と述べている。その背後には、欧米を中心とする現代アート界への違和感と異議申し立てが含まれているに違いない。
赤坂は、柳田国男が『雪国の春』に描いた「軒まで届くほどに深い雪景色の底に埋もれた、稲を作る常民たちの東北」というイメージを「ひとかけらの幻像に過ぎない」と痛烈に批判している(『東北学/忘れられた東北』)。柳田は日本という単一の国民国家幻想を広め、正当化するために「稲作以前」を葬り去ったのだ、と。曰く「くりかえすが、『雪国の春』の柳田が目指したものは、『いくつもの日本』の屍(しかばね)を縦糸・横糸として、あらたに『ひとつの日本』というテクストを織り上げることであった。その試みはみごとな成功を収め、柳田はそれ以降、『ひとつの日本』の精神史を『民俗学』の名において体系化してゆくこととなる。瑞穂の国の民俗学はそうして誕生したのだ、と言ってよい」
つまり赤坂は「いくつもの日本」の、三瀬は「いくつもの絵画」の復権を目指していると考えてよいだろう。「いくつもの日本」はいまや「ひとつの日本」に覆い隠されてしまった。同様に「いくつもの絵画(アート)」は「ひとつの絵画(アート)」に収斂させられている。大和以来の国民国家も、欧米を起源・中心とする現代アートも、すでに強固な体制を築き上げているから、復権は容易ではないだろう。だが、企図にはもちろん大賛成だ。
いま、安易に「覆い隠されてしまった」と書いたけれど、舗装道路のひび割れたコンクリートから雑草が芽吹くように、しぶとく生き残り、歴史の古層からふっと現れ出る事象や習慣もある。文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロース氏に話を伺ったときのことは以前にも書いたが、シャンパーニュとブルゴーニュの境にある別邸で、当時(1999年)90歳だった碩学は、日本とフランスの思わぬ共通点を教えてくれた。愛知万博テーマ普及誌『くくのち』創刊号から書き写してみよう(インタビュワーは中沢新一氏)。
「日本では、山岳地帯に人があまり住んでいないのは、山が神々や精霊や聖なるものの棲みかであると信じられているからだ、とよく言われます。けれどもご存じのように、同様の考え方は日本以外の場所にもあります。
たとえば今われわれがいるこの村では、古老たちが教えてくれたことですが、村の女は決して森に入ってはいけない。森は男の聖域だったのです。例外的には入れたのは、森のなかにこもって炭を焼く職人たちのために食事を用意する女たちだけ。そしてこの女たちは、男の世界に入ってゆくために、男のように見なされることがありました」
神々や精霊は、東京やパリなどの都市部からは消えてしまったかもしれない。だが、世界中の山や森には(そして、その近隣に住む人々の心には)いまだに存在するのではないだろうか。とはいえ、聖なるものが滅亡の危機に瀕していることは事実であり、我々は彼らを生きながらえさせるべく努めなければならない。それは「いくつもの日本」や「いくつもの絵画」の復権を試みる行為と重なり合う実践となるだろうが、とりわけ震災で壊滅的な被害を被った東北において、聖なるものの復権は重要だと赤坂は言う。被災した人々の心の傷を癒すために、鎮魂と供養が不可欠であるからだ。赤坂はこう述べる。
「被災地では、本当に早い段階で民俗芸能が復活しました。これにはたいへんな衝撃を受けました。食うや食わずの避難所にいる被災者が、瓦礫の中から、芸能の衣装や太鼓を必死に探し出し、洗い清めて避難所で踊る。その姿を観て、みんなが涙を流す。それもひとつ二つではなく、被災地のあちこちで、一斉に民俗芸能が復活していったのです」
東北・三陸の鹿踊り、虎舞、剣舞などの民俗芸能は、地域の神社や寺と密接に関わって伝承されてきたという。赤坂曰く「宗教性がそこには濃密に被さっているはず」。だが、政経分離を旨とする限り、国は宗教的なものを援助することはできない。赤坂はこう続ける。
「復興構想会議で委員の(※注:僧侶で小説家の)玄侑宗久さんが、何度も『被災した神社や寺に対する支援をしてほしい』と提案をされていました。その都度、『国家は宗教に関わってはいけない』という建前が立ちはだかり、議論の余地もなく却下されていました」(「文化による復興は可能か」/『震災考』所収)
国が聖なるものの復権に手を貸せないとすれば、誰がその肩代わりをすればよいのか? 実践者としての赤坂と三瀬が交わるのはこの1点においてである。具体的には「東北画」と「東北学」、あるいは「東北画」と『みちのくアート巡礼』が、「中央」の助けを借りることなく、地方・周縁・傍流として、複数の個のネットワークを立ち上げ、聖なるものの復権と、鎮魂と供養を図るのである。しかし、そんなことが本当に可能なのだろうか。
特に気にかかるのは「東北画」である。「福島の山奥の村で炭を焼き、山師をしていた」(『東北学/忘れられた東北』)という父親を持ち、自身、長年にわたって東北についての思索とフィールドワークを続けてきた赤坂はともあれ、奈良と京都、すなわち「中央」でアーティストとしての自己を確立した三瀬が、東北を本拠地としたのは5年前に過ぎない。三瀬が自ら疑問符を付けている問いを僕も発してみたい。「東北画は(三瀬に)可能か?」


三瀬夏之介の巨大絵画を観るとき、人は一瞬、どこに視線を定位させたらよいのか戸惑うことになる。高さ150cm以上のものがほとんどで、3mを超えるものも珍しくない。「日本の絵〜ハヨピラ〜」は348.4 x 717.5cmと「ピカソの『ゲルニカ』とほぼ同寸」であり、2003年から描き始め、ライフワークになるという「奇景」は、すでに横幅が60mに達したという。多くの場合、画面は墨による黒や濃灰色を基調としていて、渦巻く雨雲にも、爆発する鉱山にも、上空から捉えた未知の惑星の地表にも思える。
その黒々とした巨大画面の中に、多種多様なモチーフが描き込まれている。山のようなもの、岩のようなもの、噴煙のようなもの。丸いもの、四角いもの、塔状のもの。東西の寺院・神殿、現代の高層ビル。卵のような、目玉のような、孔雀の尾羽の模様のような球体や円形。人の顔、仏の顔、神の顔。水晶のような、サンゴのような、魚卵のような粒々。太陽と月、そして星。大仏の巨大な顔と手、闊歩する武神像、屹立する複数の富士山。零戦のような単葉戦闘機、現代的なジェット旅客機、古風な気球。UFOとネッシー……。
十字架にも星にも見える十字形がある。花火にも、ゾウリムシにも、オーストラリアの先住民(アボリジニ)が祭祀に使うチュリンガにも見える楕円形のパターンもある。作品によっては、日の丸が描かれたり、新聞紙や広告がコラージュされたりもする。こうした細部は、白(十字形)や赤(日の丸)や複数の色(楕円)で描かれることが多いが、作品を決定的に特徴付けているのは白と緑、それに金箔と銀箔の金・銀色だ。白は胡粉、緑は緑青だろう。緑青は銅が酸化して生成される錆のことで、絵具となっているものもあるが、銅と亜鉛の合金から出来ている洋金箔からも生じる。仏像や寺院の銅葺き屋根など、幼少期に見た錆の記憶がこの色を使わせたのではないか。その個人的記憶は、もちろん普遍的な時の流れ=歴史に変換されうる。陶器の緑釉にも似ているから、連想は土=大地にも及ぶ。それ以前に、墨で描かれた地の黒も、絵柄と相俟って泥や大地を想わせる。
巨大な画面、多種多様なモチーフ、歴史や大地を想わせる画材から、三瀬の作風をひとことで表現しろと言われたら「豊穣な混沌」と呼びたい。その混沌は、画材ばかりでなく支持体についても言える。多くの場合に和紙が用いられ、金箔が貼られることもあり、それと岩絵具を使うことからすれば普通の日本画と思われるかもしれないが、実際に作品を観ると驚くことになる。和紙は破られ、穴を穿たれ、紙の端のいわゆる「耳」は裁断されることなくそのままで、上述したコラージュのほかに、こよりのようなものが付けられていることもある。屏風に仕立てた、一応は伝統に則った(かのような)ものもあるが、多くは表装など施されず、額装もされず、中には両面を画面として、それを見せるために展示の際に天井から吊り下げられるものさえある。キャプションに「日本画」ではなく、「インスタレーション/ミクストメディア」と書かれていても不思議ではない。
さらに驚くべきは、和紙を支持体として用いる理由だ。本人曰く「感覚的、触覚的な面でも、ちぎったり繋げたりできるという面においても、和紙には大きい魅力を感じています。過去の展覧会に出品した完成作や作品集に載っている作品でも、新作のためにちぎって使うことがよくあります。ちぎってみると、完成したと思っていた頃とは違うイメージが新しく生まれてくるんですよ。できれば完成ということからいつも逃げていたい」「僕の絵は壊せるんです。いつでも再構成できて、始まりもないし終わりもない」(平塚市美術館・草薙奈津子館長との対談。『三瀬夏之介 日本の絵』所収)
この「豊穣な混沌」には、三瀬の記憶、体験、欲望、思考、反省などが、すべてとは言わぬまでも可能な限り放り込まれている。もとよりそれは、子供のように無邪気で無自覚な欲動の発露を意味するのではない。それとは反対に、自覚的で、意識的で、当然ながらアーティストとしての技巧と経験を駆使した、精密に計算・設計・構成された混沌なのだと思う。優れた作家であれば誰でもそうだろうが、三瀬は莫大な表現欲求エネルギーを、知性と反射神経の双方を用いて、ある部分までは動物的に本能に任せつつも、その先のぎりぎりのところで制御しているのではないだろうか。
そのことも含め、僕が三瀬の作品から連想するのは、40年前に没した画家・香月泰男である。1911年、山口県三隅町に生まれた香月は、第2次大戦の折に満州に送られ、敗戦後にシベリアの収容所に抑留された。冬には零下30度になるという最果ての地で、連日重労働を課せられる。食事は馬の飼料を水で炊いただけのわずかなもので、体力を消耗した戦友たちが次々に死んでゆく。そんな苛烈にして劣悪な環境下、数年間を何とか生き延び、帰国後に制作・発表したのが代表作『シベリヤ・シリーズ』。三瀬作品と同様、濃淡の墨による黒を基調とした、具象と抽象の間のような、重くて暗い絵画群である。
この一文は香月泰男論ではないから、これ以上深くは触れない。要点だけ書いておくと、『シベリヤ・シリーズ』は鎮魂の絵画である。そして、一見しただけでは全体像が掴みきれないが、じっと見つめている内に細部が浮かび上がってくる、観る者の参与を強く促す絵画である。記号的に羅列できるようなモチーフがたくさんあるわけではない。死者をはじめ、人物はキリスト像を想わせるように抽象化され、全体の印象はミニマルと呼びうるほどだ。だが僕は、このシリーズからも「豊穣な混沌」を感じ取る。
それは、このシリーズに、香月が自らの後半生のほぼすべてを費やしたからだ。過酷な体験の記憶を、ある義務感をもってつぶさに想い出し、主題に最適な素材と描写法をぎりぎりまで追究し、持てる技巧のすべてを用いて画布の上に表現する。その作業に香月は、わずかのブランクを除いて、帰国直後の1948年から没する直前の74年までを捧げた。その結果、香月泰男は、フランシスコ・デ・ゴヤや、アンゼルム・キーファーに匹敵する、いや、ある意味では彼らを凌ぐ戦争画家になったのだと思う。
話を三瀬と「東北画」に戻そう。「東北画」を三瀬が構想したのは2009年のことだが、11年の大震災は、それより前から作家に予感されていたような気がする。三瀬は子供のころから何度かUFOを見たことがあるというが、オカルティックな話をしているわけではない。「炭坑のカナリア」たるアーティストとして、何らかの大きな災厄の予兆を、無意識の内に嗅ぎ取っていたのではないかということだ。そうでなければ(1995年の阪神神戸大震災や、オウム真理教事件の衝撃があったとはいえ)、震災前に「ぼくの神さま」(07年〜)や「J」(08年)のような作品が作られた理由は説明できない(原発事故のみならず、震災や津波による被害も「人災」だったという説は、赤坂を含む多くの論者が述べている。かいつまんで言えば、乗り越えるべきでない自然の領域を、開発などによって人間が乗り越えたから、本来は軽微であったはずの被害が甚大になったということだ。その要因は「効率と速度の追求」であり、グローバリゼーションが本格化し始めてから、その破綻を予感していた「カナリア」たちは少数ながら存在していた、という話は以前に書いた)。
また、三瀬の作品には、天に伸びる梯子や、飛翔するかのように相輪が強調された仏塔、そして放射状の光などが出てくる。上述したように、空を飛ぶ飛行機やUFOも頻出する。特に梯子から、僕はコンスタンティン・ブランクーシの「無限柱」を連想した。草間彌生の「天国への梯子」や、宮永愛子の「なかそら–はしご–」も想い起こした。ブランクーシと同じルーマニア出身の宗教学者、ミルチャ・エリアーデによれば「ブランクーシにとり憑いているのは、(中略)無限の空間における飛翔である」(「ブランクーシと神話」鈴木登美訳)。三瀬も同様に(草間や宮永とも同様に)、無限の空間に憧れているのではないか。
それはとりもなおさず、三瀬が聖なるものを求めている証拠だと思う。だとすれば、三瀬は東北の地にそれらを求めればいい。愚直に「聖なるものの復権」を目指せばいい。そして、もちろん時間はかかるだろうが、東北の聖なるものを自らの作品に取り込めばいい。そのとき三瀬の「東北画」は、香月の『シベリヤ・シリーズ』がそうなったのと同様に、自ずと「鎮魂と供養の絵」となっているだろう。アートが宗教の代わりを務めるのだ。
香月は『シベリヤ・シリーズ』を、シベリアではなく故郷の三隅で描いた。「東北画」も、三瀬の体験さえ深ければ東北ではなく世界のどこででも描ける。体験がまだ足りないというのであれば、とことん気が済むまで東北で暮らし、東北に身を浸し、東北を内在化すればいい。そのときに三瀬は、奈良からも京都からも、日本という呪縛からも解放されるだろう。そしてそれこそが「いくつもの日本」や「いくつもの絵画」の復権(の一例)となる。三瀬に「東北画は可能」であると僕は思う。赤坂との協働をぜひ進めてほしい。
三瀬夏之介 個展「Vernacular Painting」は、5月24日(土)から6月15日(日)まで、イムラアートギャラリー東京で開催される。赤坂憲雄×三瀬夏之介×小崎哲哉(モデレーター)によるトークイベントは、初日の5月24日(土)17:00から、同ギャラリーのある3331 Arts Chiyoda の1Fコミュニティスペースで行われる。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。