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258:F/T相馬ディレクター退任の舞台裏IV
小崎哲哉
Date: February 10, 2014

承前

 

続いて、フェスティバル/トーキョー(F/T)前プログラム・ディレクターの相馬千秋氏へのインタビューをお届けする。市村氏インタビューの直後に、同じくSKYPEで東京のANJ事務所と京都の小崎事務所をつないで(回線状況がよくなかったために映像は切って音声のみで)行った。市村氏は自身のインタビュー後すぐに退席されたとのことだが、事務所には蓮池奈緒子事務局長ほか、F/Tに携わったANJスタッフが同席していた。

 

突然の「退任」告知

相馬千秋氏 | REALTOKYO
相馬千秋氏
(c) Nobuyuki Kagamida

まずは経緯について伺います。いつごろ「退任」という話が出てきたんでしょうか。

 

相馬:私は6月23日に出産しているんですが、産後2週間後、産休を取っている間に事務局長の蓮池から電話で連絡があったんです。先ほど市村が申し上げたように、いろいろな状況の中でANJとしてそういう方向で行くから、と。子供を産んで間もなかったので、混乱していたというか、うまく理解できなかったですね。

 

つまり、寝耳に水だった。産休を取る前には、少なくとも相馬さんはそんな話は聞いていなかったわけですね。

 

ANJとしても聞いていませんでした。

 

その際、退任の理由についてはどのように告げられたのですか。先ほどの市村さんのように「言えない」と言われればそれまでですが。

 

大まかに言うと「内部の体制変更だ」と。それに対して私は、ANJの職員として雇用されている立場なので、その決定に従わなければ解雇されてしまうわけですから……。要するに選択肢はなかったということです。

 

東京都からの説明もあったんでしょうか。

 

はい。なんでそういうことになるのか、私がなかなか理解できなかったものですから、市村のほうからお願いして。産休が明けた4日後にアーツカウンシル東京(ACT)に行って、さっき市村が申したような理由を説明されたんです。

 

産休明けはいつだったんですか。

 

8月19日です。

 

「さっき市村が申したような理由」というのは?

 

東京都が主催者の一員という立場から助成金を出す立場に変わり、ANJに組織体制の変更を求めた、ということです。

 

その席にはどなたがいらっしゃったんですか。

 

市村と私が呼ばれて、東京芸術劇場の高萩(宏)さん、ACT機構長の三好(勝則)さん、ACTプログラムディレクターの石綿祐子さんがいらっしゃって、そういう方々から説明されました。

 

相馬さんご自身は「退任」させられた理由は、端的に言って何だと思われますか。先ほどの説明は背景としてはわかりますが、都が助成金を出す立場に変わったからといって、そのこと自体はディレクターを交代させる理由にはなりませんよね。

 

論理的にはつながらないですね(笑)。なので私も、なぜかというのはわからないわけです。プログラムに問題があったのか、うち(ANJ)のやって来たF/Tが東京都のビジョンに合致しないものであったのか。そういったことについて評価が為されたのであれば理解できますが……。F/Tは、東京都、豊島区それぞれの財団とANJなどを主催者として実施されている。つまり、パブリックな立場の主催者がパブリックなお金を使って運営しているフェスティバルですから、評価というものもパブリックに為されていくはずであろうと私は思います。しかも、F/Tが始まった後にアーツカウンシルが立ち上がって、外部評価者の方々が視察の対象とするようにもなったわけですし、F/Tをどんな基準で評価していくか、これから整えられていくだろうという期待もあったわけです。ところが、私が組んできたプログラムに関しては、明文化された評価はどこからも受け取っておらず、ACTからも「プログラムが原因でディレクターが交代するわけじゃない」とはっきり言われています。むしろ、「ACTはまだ評価を出せるような状態ではない。それは申し訳なく思っている」とそのとき伺ったので、では、プログラムが原因ではないんだな、と。であれば何が理由だったのか?

 

何だと思いますか。

 

いや、わからないです。それは私が聞きたい、本当に(笑)。ツイッターなどでは産休・育休が理由ではないかと言っている人がいますけれど、個人として言えるのは「それは違う」。2ヶ月取った産休はとっくに終わって仕事に復帰しているわけですし、育休に関しても今後取る予定はまったくないわけで。

 

「説明不足」は問題の本質ではない

市村さんへのインタビューで一般的な「退任」の理由を挙げましたが、「健康問題」ではないわけですね。ひとつひとつ消してゆくと、F/Tのディレクターに任期は定められていないから「任期切れ」でもない。また、先ほどの話からすると「プログラム内容」に問題があるわけでもない。

 

それはわからないですよ。内部的な評価があったのかもしれない。それがオーソライズされたり、パブリックにされたりしていないというだけで。

 

なるほど。でも、表立ってそれが問題にされているわけではない。予算が超過しているということもないですよね。

 

これは仕組みの問題ですけど、予算がオーバーした場合、赤字を担うのはANJなんです。過去に多少赤字が出たケースもあったかと思いますが、それはANJが負担するので、ほかの主催者にご迷惑はおかけしていません。

 

動員についてはどうなんでしょう。毎回報告書を作って報告していることは承知していますが、内部的に目標を作ったりはしているんでしたっけ。

 

『フェスティバル/トーキョー12ドキュメント』 | REALTOKYO
『フェスティバル/トーキョー12ドキュメント』。相馬F/Tは批評プラットフォームの創設・運営、座談会の開催、出版など、言説の創出にも熱心だった。

もちろん毎回、目標を立ててやっています。内部的に立てた目標を大きく下回ったことはまったくなかったし、課題はひとつひとつこなしていたと私は思います。ただ、目標値の設定が、ほかの主催者と事前にどこまですり合わされていたか……。彼らはフェスティバルの現場を作る方々では当然ないので、我々の提案を受けて「じゃあ、それで行って下さい」と言う立場じゃないですか。どういうビジョンを描いて、それを具現化するためにどういう数値目標や収入目標を立てるかということを、事前にもう少し話し合っておけば、違う受け止め方があったのかもしれません。

 

とはいえ、プログラム内容は市村さんも先ほど「かなりの作品が素晴らしい」と言っていたし、数値目標も大きく下回ったことはないとすると……。

 

だから結局、ディレクター制度というものに行きつくのかもしれません。

 

というと?

 

私がディレクターを仰せつかって6回やってきて、当然そこには私の価値観や色が強く出る。それが「大統領制」の具体的な現れですが、もちろんそれに対してはいろんな反応があるわけですね。単純に私の価値観を認めない方もいるだろうし、それによってある種の演劇やある種の層が疎外されたと感じた方がいたかもしれない。私は海外の様々な例を見ているので、ディレクター制度とはそういう(個人の価値観や色が出る)ものだろうと思っていて、「国際的なスタンダードのモデルを作る」ということを目標のひとつに掲げたりもしました。だからフェスティバルの構造にしても作品の作り方にしても、それを体現してきたつもりだったわけですけれど、それが、先ほど市村が言ったように、日本的な現状には馴染まなかったということなのかもしれないですね。

 

何人かの業界関係者から「相馬さんのプログラムは面白かったけれど、説明が少なかった」という意見を聞きました。例えば片山正夫さんは「『どうして毎年、同じ人が出るの?』などと都から説明を求められた場合に、説明責任みたいなところはどうだったか」、内野儀さんは「『なぜ毎回リミニ・プロトコルとPort Bが出るのか』という異論は出ていた。(Port Bの)高山明氏は説得力をもって説明していたとは思うが、毎年やることのジャスティフィケーション(正当化/理由付け)をフェスティバルとして、プログラム・ディレクターがやっていたかというと疑問がある」と述べています。

 

私はACTのボードに、プログラムについて説明する席に呼ばれたことは一度もありません。そういう会議はなかったので、おっしゃっているのは東京都などとの主催者会議等のことだと思うんですが、そういう指摘があったことは事実です。自分としては必要十分に説明していたつもりですけれど、大きなテーブルに着く前に小さなテーブルで対話や説明をするプロセスがもっとあったほうがいいという声は私のところにも届いていて、それを踏まえて、F/T13はかなり事前にお伺いをして説明をしました。それが今回のことの一因になっているとしたら、私としては残念と言うか、もっともっと事前に説明をすればよかったなとは思いますね。

 

逆に言うと、それは問題の本質ではなかったと。

 

それが問題の本質だったとしたら、いきなりバサッと「体制変更」とはならなかったと思うんです。

 

なぜ内容の評価がないのか?

相馬さんはディレクターとしては退かれたわけですが、今後F/Tに何らかの形で関わるんでしょうか。

 

私の意志がどうかという問題ではもはやないので、組織の決定に従うのみです。いまのところ組織からは「こうすべし」という話はありませんし、現状を申し上げると私はF/T14には一切関わっていません。私が(F/T14のために)準備していたプログラムは全部キャンセルになりました。F/T14に関しては、すべて市村がやることになっています。

 

どのくらい準備していたんですか。

 

4〜5本ですね。

 

それは、カンパニーの内諾は取っていたのにキャンセルしたということですね。

 

もちろんそうです。時期的に言ってそうじゃないですか。でもまあ、ディレクターが変わるというのはそういうことだと思いますから。

 

先ほど市村さんが「早急に複数ディレクター制度に変わってゆく」とおっしゃっていましたが、相馬さんがそのひとりになるということもありませんか。

 

そんなことは聞いたこともないというか、さっき初めて聞きました(笑)。市村が希望しているというだけで、どこにもオーソライズされていないことだと思いますが……。まあ、そういうビジョンはあるのかもしれませんが、F/T14の内容もまだ固まっていない段階ですから、どうなるかはちょっとわかりません。

 

いまは相馬さんは何をされているんでしょう。

 

F/T13のドキュメントの編集に関わっているのと、「r:ead」(リード)というプロジェクトにディレクターとして、企画から運営までを担当しています。「r:ead」は去年立ち上げた「レジデンス・東アジア・ダイアローグ」という非常に小さなプロジェクトで、日本・中国・韓国・台湾からアーティストとキュレーターの合計8人にレジデンスしていただく、対話型のレジデンスプログラムです。

 

その後は?

 

何も決まっていないというのが実際のところです。

 

なるほど。では最後に、何か総括的なコメントをいただけますか。

 

F/Tは、やっぱり「芸術祭」だったわけですよね。芸術の価値をめぐって様々な言説を作り、またアーティストとともに作品を作ってきたわけです。でも、その芸術の部分がまったく評価や議論のテーブルに上げられることなく、プログラム・ディレクターすなわちアーティスティック・ディレクターが変わってしまうということに関しては、F/TやANJという内部の問題を超えて、みんなに今後議論していっていただきたいという気持ちは強くありますね。そこが置き去りにされているのはやっぱりおかしい。

 

そこが本質ですよね。今回のことも、内容が問題になって「退任」となったのではないので、みんなが「どうしたんだ?」と思ったという話でしょう。

 

私もそこが本質だと思います。外部評価者という方々がいて、ACTという組織も出来たわけですけど、そういった人たちとも議論を重ねたかった。私は、みんなが違う方向を見ているとは思っていません。世界に誇れるようなプラットフォームが日本にあるべきだ、というのは同じでしょう。それによって、オリンピックも含め、東京という街、ひいては日本という国にもっと活力を取り戻してゆくという大きな視点は、誰しもが共有してきたはずだと思うんです。私ももちろん、そのためにここまでF/Tをやって来た。実際、F/Tで作られた多くの作品が海外に招聘もされているし、日本からこういう新しい演劇やアートの価値が生まれてきたということは、たぶん印象づけることができていたはずで、そういう部分の議論が為されないままディレクターが内部人事で代わるということは、海外から見ると、いや世間一般から見ても不可解ではないでしょうか。

 

僕もそう思いますね。長時間ありがとうございました。

 

 

今回、一連の記事の第1回目に、僕は以下の「噂や憶測」を挙げた。

 

  1. 退任ではなく実質的な解任である
  2. 相馬氏の産休中に、本人がまったく知らない間に決まった人事
  3. すでにANJと相馬氏は『F/T 14』の準備を具体的に始めていた
  4. したがって退任(解任)は外部の圧力に因る
  5. プログラム編成をめぐって東京都と確執があった
  6. 背後には某大物演劇関係者がいる
  7. オリンピック開催に伴って文化予算が増え、F/Tの規模が拡大される(あるいは別途大規模な文化イベント企画が始まる)。そのための布石
  8. 先鋭的・実験的だったこれまでとは異なり、『F/T 14』はよくある凡庸なものになる

 

1については、市村・相馬両氏のインタビューを読んで、読者各々が判断してほしい。

2は相馬氏本人の口から事実であることが語られた。

3も同じく、相馬氏の口から事実であると語られた。

4については市村氏が「『ANJとしてはどうするんですか』という向こうの問いがあって、こちらとしては『こう対応します』と。要するに、東京都が主催から脱けるに当たっての対策」「金を出してくれる人とか、劇場を持ってる人とか、様々なステークホルダーがいるわけですから。勝手にはできない」「東京都や文化庁はお金を出してくれているし、東京芸術劇場は劇場を貸してくれている。ということは、相互に拒否権を持っていると思う」と述べている。これらの回答から推測・判断されたい。

5についても上記4を参照。なお、アーツカウンシル東京(ACT)の三好機構長は、筆者からのメールによる問い合わせに「新体制への移行に関しては、東京都からの見解を特に聞いておりません」と回答している。

 

6と7については不明だが、8については市村氏が「社会とアートの関わりを中心」として、越後妻有、取手、千住などのアートプロジェクトに注目し、「舞台芸術から出発して垣根を越えて」いきたいと述べている。相馬ディレクションによるこれまでのF/Tや、既存のアートプロジェクトとどこが違うのか、納得のゆく回答は得られなかったが、リレーショナルアート(関係性のアート)的なアートが、つとに1990年代初頭から存在していることは指摘しておきたい。ようやく世界標準に追いついたF/Tが、主催者の知識・認識不足によって退行するとしたら笑えない悲喜劇である。

 

市村氏はディレクター制度について「日本の中で決して馴染むものではなかった」と述べ、相馬氏も「そうかもしれない」と同意している。ここでいう「日本」は、F/Tのようなフェスティバルのありようとは対極にあり、さらに言えばF/Tのようなフェスティバルが打ち壊そうとしていたシステムの謂いであるだけに、両氏の発言は敗北の弁であるとも言える。それを「空気の支配」と呼ぼうと「甘えの構造」と呼ぼうと、あるいは「ムラ」や「悪い場所」と呼んでもいいけれど、日本的なシステムはなかなか手強い。話を大きく広げるつもりはないが、相馬ディレクターの「退任」、そして「退任」が決定された手続きはまさに日本的なシステムを象徴するものであり、昨今の世相や、原発や沖縄の基地をめぐる動きと根っこを同じくするものだとは言っておこう(日本的なシステムについて考える上で参考となる近著として、開沼博の『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』東島誠+與那覇潤の『日本の起源』を挙げておく)。

 

今回の事件の問題点や教訓は、インタビュイーや寄稿家のコメントからほとんどが汲み取れるが、ひとつ強調しておきたいのは、アーツカウンシル東京がまったく機能しなかったことだ。ACTのウェブサイトに列記されている設立趣旨3点の内、とりわけ最後の「芸術文化の自主性と創造性を尊重しつつ、専門的かつ長期的な視点にたち、新たな芸術文化創造の仕組みを整えます」という文言に注目したい。「芸術文化の自主性と創造性を尊重」するのが役割だとすれば、今回のようなケースには、ACTこそが相馬ディレクターを守るべきだった。それなのに、カウンシルボードへの事前連絡すらなかったというのは怠慢にして役立たずとしか言いようはない(この連載の第1回、片山正夫氏の発言参照)。

 

なお、F/Tの外部評価については東京文化発信プロジェクトが東京芸術文化評議会に提出したものが、他のプロジェクトの評価とともに、東京都生活文化局のウェブサイトに掲載されている。いまのところは平成21年度からの3年分。「3回目の開催で、事業が定着するとともに、さらに充実した内容のフェスティバルとなった」「国内外での注目度も高く、F/T プロデュース作品が世界で上演するスキームが整い、世界の主要なパフォーミングアーツ・フェスティバルの一つとなっている」(平成22年度)、「ヨーロッパの代表的演劇祭や香港・シンガポールの国際舞台芸術祭と遜色のない内容で実施できた」(平成23年度)など、総じて高評価であり、それにもかかわらず相馬ディレクターが退任させられたというのは、この評価が無視された、あるいは蔑ろにされたということにほかならない。評価に携わった外部評価者と東京文化発信プロジェクトは、なぜ抗議しないのか。少なくとも、東京芸術文化評議会とF/T実行委員会に、ディレクター交代について整合的・論理的な説明を求めるべきだと僕は考える。外部評価に公金を使っている以上、説明すら求めないのであれば職務怠慢のそしりを免れないだろう。

 

この外部評価は概括的なものであり、個々の演目についての論評はない。相馬氏の言うとおり、内容についての深い議論が望まれる。今回の取材を通して、個人的に僕は、「退任」は外部からの圧力に因るもので、それは相馬ディレクターのプログラミングと運営手法に反対する陣営からのものであろうと、ほぼ確信している。密室内の謀議について、真実が暴かれると不都合が生じる立場にある者は、仮に取材に応じたとしても実際に話されたことを述べるはずはない。だから本当の「舞台裏」は、当事者が何らかの事情で反省・懺悔でもしない限り明らかになることはないだろう。だとすれば、今回の人事を不当だと思う者は、ディレクター選任についてのルールの策定に加え、プログラミングについてのガラス張りの議論を求めなければならない。「甘えの構造」や「ムラ」、そして同調圧力がいまだに残るこの国を変えるには、徹底的な議論こそが、唯一にして最良の方法である。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。