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252:中日新聞5記者への公開質問状
小崎哲哉
Date: November 02, 2013

あいちトリエンナーレが10月27日をもって閉幕した。僕が担当したパフォーミングアーツ部門は、参加してくれた作家やカンパニーはもちろん、現場スタッフやボランティアの方々にも助けられて、素晴らしい結果を残せたと思う。ポストパフォーマンストークにおいては、多くの回で非常に内容の濃い質問が出て、観客のレベルの高さに感銘を受けた。数々のレビューもおおむね好評で、まずは成功と言ってよいかと自己採点している。

 

現代美術部門も、近年の他の国際展と比べて質が高かったと言えるだろう。何よりも「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか: 場所、記憶、そして復活」というテーマがよかった。2年半前の震災と原発事故は、文明国を襲った大災害であり、国際展であるからこそ取り上げるべき歴史的な主題である。それをそのまま扱うのではなく「われわれはどこに立っているのか」という一歩引いた視点を取り入れた。だからこそ観た者をして深く考えせしめる、普遍的で重層的な作品がいくつも集まった。グループ展であるから、あらゆる作品の質が高いということはあり得ない。個人的に首を傾げる展示もあったことは記しておく。けれども全体としてみれば、志が高く、筋の通った展覧会だったと思う。

 

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中日新聞 記者座談会(上)
中日新聞 記者座談会(上)
2013年10月28日(月)版
中日新聞 記者座談会(下)
中日新聞 記者座談会(下)
2013年10月29日(火)版

ところが閉幕翌日・翌々日に地元の大新聞・中日新聞に掲載された5名の記者による座談会(上・下)は、トリエンナーレを真っ向から批判するものだった。大見出しはそれぞれ「意義問われた「第2回」」「地域と連動 特色生かせ」だが、内容は非常に手厳しく、結語は「何を発信したいのか、問い直さないと、よそから持ってきた現代アートなるものを集中的に縦覧させて、地元を疲弊させるだけだろう」。パフォーミングアーツ部門に対しても、関連する発言10の内9つまでが、徹底的とも言えるほどの批判を行っている。

 

非常に結構なことだと思う。文化部記者が3人も(他は放送芸能部)参加しているにしては「よそから持ってきた現代アートなるもの」という表現は(特に「よそから」と「なるもの」が)どうかと思うが、それも含めて批評・批判はジャーナリズムに与えられた権利であり責務である。トリエンナーレ実行委員会には中日新聞社の社長も加わっていて、にもかかわらず現場がトリエンナーレ批判を行うことも小気味よい。だが一方で、批評・批判はあくまでも事実に基づいていなければならない。根拠が間違っていたり、そもそもそんな根拠が存在していなかったりすれば、言うまでもなくその言説は信用できないものとなる。昨今の食品偽装問題ではないが、ジャーナリズムは虚偽を暴き、告発することこそが存在意義であって、自らが虚偽報道を行うのでは話にならない。だが残念なことに、この座談会には事実誤認が山ほどあって、それに基づいた妄言で記事が構成されている。誤認のほとんどは、取材と校閲(事実確認)の不足に因る。いずれもジャーナリズムのイロハであり、同業者としてちょっと信じられないし情けない。

 

関連発言10のすべてに事実誤認がある。その内9つは、間違った前提の上に立って強引に議論が進められ、結論が下されている。つまり、少なくともパフォーミングアーツに関しては、この記事全体が悪質なミスリードであるか、あるいは単にナンセンスな戯言である。現代美術部門に関する批判は、これもあまりに「印象批評」であって説得力がないと思うが、それに関しては深入りしない。ともあれ、覆水盆に返らず。一度公表された記事は、「トリエンナーレってひどいものだったんだね」という印象を読者の脳裏に刻み込んだことだろう。トリエンナーレに関わった者のひとりとして「冗談じゃない」と僕は思う。

 

一方で、パフォーミングアーツ部門に関する議論全体については、ある意図が読み取れなくもない。座談会の末尾に「舞台公演は愛知芸術文化センターに集中するのではなく、周辺にある劇場も使用せよ」という趣旨の発言があるが、全体の動員数や、芸術文化センター小ホールの席数についての(間違った)指摘は、その主張につなげるために用いられていると考えれば納得しうる。だが、その建設的な(と僕は思う)意見は、こんなにもお粗末な記事の中では到底説得性を持ち得ない。質問状に書いたとおり「なぜか」とあるだけで「集中」の理由が追究・追及されてもいない。非常にもったいない。

 

というわけで、以下に掲載するのは、5名の記者への「質問状」である。同じものを中日新聞社宛に別途送付した。Webに接しない新聞読者も多いから紙上での回答を求めているが、どんな形にせよ回答があり次第、REALTOKYOでも公表するつもりだ。前述したとおり僕はパフォーミングアーツの統括プロデューサーなので、質問対象は担当部門に限った。各記者の評価(というより感想)については思うところがあるが、それについては質問状には書かず、事実誤認とそれが生じた(それを正さなかった)理由についてのみ尋ねている。現代美術部門や全体の企画意図などについては、すでに五十嵐太郎芸術監督がツイッターで精力的に発言・反論している

 

ところで、この質問状が、あいちトリエンナーレの公式サイトに掲載されないことを不思議に思う方も多いだろう。内容からして、公式サイトに載せるのが当然ではないか、と。

 

実は、トリエンナーレ事務局に掲載を拒否されたのだ。理由は、上に書いたとおり中日新聞社の社長が実行委員会のメンバーであり、公式サイトに掲載すると愛知県と中日の対立が露わになり、同社との関係に影響が出てしまうからとのこと(笑)。現代のメディア状況についてまったく無知というか、すでに露わになっているのに何を言っているのかと思う。実行委員である中日の社長と、トリエンナーレを批判する中日の現場が、(健全にも)「対立」していて、それはツイッターにも書かれている。だがもしかすると、こうして僕に書かせることによって、間接的に「我々事務局は事を荒立てないように努力しています。今後もよろしく」というメッセージを中日側に伝えたいのかもしれない。自分たちのトリエンナーレへの誇りも見識もない。「自分たちの」という意識すらないのかもしれない。

 

最初に書いたように現場スタッフの尽力は素晴らしかったが、事務局にはずいぶんひどい目にあわされた。唖然とするようなことばかりだが、内部のことなので詳細はここには記さない。実行委員長に報告するなどして今後の状況改善に資する提言を行うつもりだが、トリエンナーレをよい形で継続させるには事務局の意識改革が必須であるだろう。

 

国際展は国と国の境を超えるから「国際」というのであって、国内だけ、県内だけ、県庁内だけ、自分の上司と取引相手だけを見ているのでは「田舎者」のそしりを免れない。海外からの参加アーティストや観客・報道陣らと積極的に交わり、悪条件の中で見事にトリエンナーレを成功させたボランティアを含むスタッフ、名古屋や岡崎の地元の方々の爪の垢でも飲んだらどうか。「よそから持ってきた現代アートなるもの」を始め、「よそ」を排除し続けると、いずれしっぺ返しを受け、孤立することになると言っておこう。

 

中日新聞を含めて、メディアは上記のようなことを取材し、議論し、報道すべきだと思う。質問状中、(5)(8)(10)の問題についても、もっと深く討議されてよい。都合さえ合えば取材には応じられるので、いつでもご連絡下さい。>マスメディア各位

 

 

中日新聞のあいちトリエンナーレに関する記事における事実誤認についての質問状

謹啓

 

 あいちトリエンナーレ2013パフォーミングアーツ統括プロデューサーの小崎と申します。2013年10月28日および29日に貴紙に掲載された「あいちトリエンナーレ2013 記者座談会(上・下)」を拝読したところ、少なからぬ数の事実誤認を発見しました。以下、各発言を引用しながらご質問差し上げます。紙上でのご回答をお願いいたします。

(職掌柄、パフォーミングアーツに関する部分のみを対象としたことを申し添えます)

 

(1)上1段目・記者C発言
劇場や街中でのパフォーミングアーツ(身体表現)の観客動員は、主催公演の規模や本数が縮小されて減った。

 

 観客動員数は前回に比べて10,000人近く増えており、それは貴紙のご要望に応じて、10月24日にトリエンナーレ事務局がご提供したデータに明記されています。何か勘違いされたのでしょうか。

 

(2)上2段目・記者D発言
オペラ以外の劇場での主催公演も席数百五十前後の愛知県芸術劇場小ホールばかり。可変式の席数を絞っても、延べ三十五回で約五千人しか入らず、満席が続出した前回に比べて苦戦した。(※下5段目の記者D発言にも「百数十席の実験劇場」とあります)

 

 愛知県芸術劇場のウェブサイトに「客席数移動席(一部壁面収納椅子席)で標準282席(最大330席)」と明記してあります。席数を調整して百数十席にした公演もありますが、標準席数で上演した公演もあります。ウェブサイトはご覧にならなかったのでしょうか。

 また、ご提供したデータには「満席」に関するものはありません。事務局によれば、席数に対する入場者の割合について貴紙よりお問い合わせを受け、10/17に「10/15までの公演全体で88%前後」と回答を差し上げましたが、前回の「満席」状況についてはデータがないので回答しておりません。小ホールに限って言えば、前回の総計5,558名から5,071名と動員数が減ったのは事実ですが、なぜ小ホールのみを強調されるのでしょうか。

 

(3)同
観客動員が楽勝と思われた小ホール公演が中盤以降は難解な先鋭性が際立ち、客足が鈍った。

 

 事実は逆で、前半5演目に対し、後半5演目の1上演あたりの動員数は微増しています。正確な数字をもとにせず、「難解な先鋭性」を理由として、やはり小ホール公演を強調されたのはなぜでしょうか。

 

(4)上4段目・記者B発言
昔つくった作品も多く、芸術家が挑戦したというより、テーマに合わせて作品を集めた感は否めない。(※上6段目・記者E発言にも「何よりも旧作が目立った」とあります)

 

 他のご発言から察するにBさんは舞台芸術ご担当ではないようですが、それはともあれ、パフォーミングアーツ(以下、「PA」)部門においては、15演目中8演目が新作です。音楽公演だったので清水靖晃+カール・ストーンの『Just Breathing』は「新作」と銘打ちませんでしたが、実質的には委嘱新作で、これを加えれば15演目中9演目となります。もちろんご存じでしょうが、新作製作に熱心なアヴィニョン国際演劇祭2013は39演目中21演目、ブリュッセルのクンステンフェスティバル2013は32演目中18演目、フェスティバル/トーキョー2013は15演目中6演目が新作であり、それらに比して遜色のないものだと思います(しかも、予算は桁違いです)。現代美術部門においても同様であるのは国際的な常識ですが、すべて新作の国際展や演劇祭はありえません。どのようなフェスティバルと比較してこう書かれたのでしょうか。また、テーマに合わせて作品を集めることは、どの部門においても当然だと私たちは考えています。何が悪いのでしょうか。

 

(5)上4〜5段目・記者C発言
柴幸男や(中略)梅田宏明(中略)ジェコ・シオンポら、現代アートの祭典らしい目配りの作品もあった。

 

 私は現代アート雑誌の編集長を務めていましたが、梅田宏明以外の2作家について、何が「現代アートの祭典らしい目配り」なのかわかりません。教えて下さい。また、ペーター・ヴェルツ、やなぎみわ、ジェイソン・アキラ・ソンマ、中崎透、金氏徹平ら、現代アーティストがPA部門に参加していることこそが「現代アートの祭典らしい目配り」であるつもりですが、その事実をまったく記さずに、こう書かれた理由は何でしょうか。

 

(6)上5〜6段目・記者D発言
地元の十四団体参加の祝祭ウイーク(ママ)公演は(中略)何より主催公演に欠けていた祝祭感があった。

 

 上1段目・記者C発言で取り上げられ、写真も掲載していただいた主催公演『フェスティバルFUKUSHIMA! in AICHI!』は、本文・キャプションにあるとおり2日間で約1万5千人を動員しました。文字どおりの「フェスティバル」(祝祭)として皆さんに喜んでいただけたと自負していますが、これにも祝祭感が欠けていたとお考えですか。

 

(7)上6段目・記者C発言
外部起用の部門総括(ママ)プロデューサーの意向というが、

 

 私の名前を記さず、「意向というが」と伝聞体で書かれたのはなぜでしょうか。なお、私の正式な肩書きは(「総括」ではなく)「統括プロデューサー」です。

 

(8)同
まずベケットありきの作品選定や制作依頼は本末転倒だと思う。

 

 私は再々、ベケット作品およびベケット関連作品を中心に編成することの意図を話し、また書いてきました。プレスリリースやチラシなどにも掲載しています。貴紙からの個別取材を受けたことは一度もありませんし、記者発表などで上記に関する質問を賜ったこともありませんが、何をもってこうおっしゃるのでしょうか。「本末転倒」であるとすれば、この場合の「本」とは何でしょうか。

 

(9)下2段目・記者D発言
今回はオノ・ヨーコや世界的な振付家イリ・キリアンらトリエンナーレの「顔」となるアーティストが作品出品のみで、会場入りしないまま。キリアンは内容的にも評価は分かれた。(中略)現場にアーティスト本人が居合わせないのでは、盛り上がりに欠けるし、なんだかコケにされているようで釈然としない。

 

 イリ・キリアン氏は「残念ながら私は飛行機に乗ることができず、名古屋での世界初演に立ち会うことができない」と語るビデオメッセージを寄せて下さり、我々は記者発表時にビデオを上映するとともに、メッセージを和訳して配布しました。健康上の理由が示唆されているわけですが、貴紙のこのコメントは氏に対する甚だしい非礼であり、著しく配慮を欠くものだと思われませんか。

 また、キリアン公演『EAST SHADOW』は、多くの新聞・雑誌・ウェブサイトにおいてご好評を賜りました。観客アンケート、いくつかのブログ、Twitterなどにおいても、我々が集計した限り、好評が不評をはるかに上回っています。「評価は分かれた」という場合、日本語では普通、「半々」「相半ば」を意味するかと思いますが、上のように書かれた根拠を教えて下さい。なお、もちろんご存じでしょうが、ほかならぬ貴紙10月5日付け夕刊にも、安住恭子氏による好意的な記事が掲載されています。

 

(10)下5段目・記者D発言
美術が当初から愛知芸術文化センターから館外展開しているのに対して、パフォーミングアーツ部門の舞台公演はなぜかセンター内に限定された。

 

 事件・事象の報告のみならず、その経緯や背景を取材・報道するのがジャーナリストの使命であろうかと存じます。せっかく「なぜか」と疑問を抱かれたのであれば、「センター内に限定された」理由を追究すべきでしょう。実際、私と藤井明子プロデューサーは、10月25日に開催されたクロージングイベント「あいちトリエンナーレ2013に関する『Q&A』」においてその理由の一端を語っています。翌26日付の貴紙には「トリエンナーレ閉幕控えQ&Aイベント」という記事が掲載されていますが(宮川様の署名が入っています)、私と藤井プロデューサーが語った「理由」については「なぜか」1行の記述もありません。担当責任者が語った「理由」が29日付の記事(座談会・下)に掲載されず、あたかも何の説明もなかったかのように「なぜか」とのみ記されたのはなぜですか。また、重大な問題であるなら(重大な問題であると私は考えます)、さらなる取材を行うべきだと思いますが、それを怠ったのはなぜですか。

 また、実際にはPA部門も「館外展開」を行っています。上1段目・記者C発言で取り上げられた『フェスティバルFUKUSHIMA! in AICHI!』や、下1段目・同じく記者C発言で言及された「岡崎会場の閉店フロアを使った「まちなか公演」」すなわち向井山朋子+ジャン・カルマンの『FALLING』、それに長者町を中心にやはり「まちなか公演」を行ったほうほう堂の『ほうほう堂@おつかい』です。同じ記事内の記者Cによる2つの発言と矛盾する、誤った発言が正されなかったのはなぜでしょうか。

 

 

 記者の方々に対してこう書くのは釈迦に説法でしょうが、ジャーナリストの仕事の基本は、きちんと取材をし、入手した情報が事実であるかどうかを確認し(すなわち「裏」を取り)、正しく論理的な日本語で執筆報道することかと思います。記事中、PA部門に関する発言は(上4段目の記者B発言および上6段目の記者E発言を含めて)10。内9つまでが事実に依拠していず、事実誤認はいずれも取材不足・確認不足によるものです。間違った前提や憶測に基づいて恣意的に議論が進められては敵いません。

 東海地方を代表する大新聞が2日間にわたって紙面を大きく割き、トリエンナーレについて語って下さったこと自体はたいへんに感謝しています。しかし一方で、これほどまでに無根拠な報道がなされ、多くの読者が「そうか、トリエンナーレはこんなにひどかったのか」という印象を持たれたことについては暗然とした思いを禁じ得ません。いったん紙面化された記事は、後でどれだけ訂正されようとも、ひとり歩きし、大きな(悪)影響を及ぼします。訂正自体に気が付かない読者も当然いらっしゃることでしょう。

 なお、上記の内、特に(10)については、個人的に非常に重要なことだと考えており、ご指摘自体には感謝申し上げます。再取材によって議論が深まることを期待しています。

 

 ともあれ、以上10の質問に対して、貴紙上でご回答いただければ幸いです。なお、この書状は別途、ウェブマガジン『REALTOKYO』に公開することを付言いたします。

 

謹白

 

2013年11月1日

あいちトリエンナーレ2013
パフォーミングアーツ統括プロデューサー
小崎哲哉

 

中日新聞
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寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。