
やなぎみわの『ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ』では、「1924シリーズ」の『Tokyo-Berlin』や『人間機械』などと同じく、観客はイヤフォンを渡される。耳に装着して最初に聞こえてくるのは軽快なジャズ。イヤフォンを渡してくれた案内嬢が「聞こえますでしょうか」「聞こえない方、お手をあげていただけますでしょうか」と繰り返し、その内にいつの間にか芝居が始まっている。毎度のことながら優れた導入部だと思う。

やなぎみわ『ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ』 Photo: Hatori Naoshi
イヤフォンからの「声」(以下、イヤフォンからの声には括弧を付ける)は、基本的にはイヤフォン以外の、劇場空間で直接聴き取られる声と重なり合っている。今回は第2次大戦中に対米プロパガンダ放送を行い、米兵たちに「東京ローズ」というニックネームを付けられた女性アナウンサーたちをめぐる物語であるだけに、「声」のほとんどは彼女たちがマイクロフォンに向かって語り、ラジオ短波によって米兵たちに届けられた音声である。
「Good evening, my fellow orphans in the Pacific…(こんばんは、私の可愛い太平洋の孤児たち……)」に始まる対米謀略放送番組「ゼロ・アワー」。ノイズ混じりのその「声」は「貴方が狐の穴みたいなところで戦っている間、貴方の奥さんや恋人はきっと淋しい思いをしているわ。そんな女には必ず誘惑者が現れるのよ。初めてのデートではキスまでするのかしら……」というような台詞で太平洋上の米兵たちの士気を削いだとされ、そのためにアナウンサーのひとりは戦後、人生を大きく狂わされることになる……。

やなぎみわ『ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ』 Photo: Hatori Naoshi
『ゼロ・アワー』は、そのドラマティックな筋書きだけで十分に面白い。戦争とメディアをめぐる、そしてふたつの文化の狭間を生き、時代に翻弄された人々についての物語。巧妙に張りめぐらされた伏線も、フラッシュバックを挿入する手法も効果的で鮮やかだ。だが、物語だけでよければ、例えばドウス昌代による優れたノンフィクション『東京ローズ』を読めば足りるだろう。やなぎがこの作品で描きたかったのが、東京ローズであるとされ、国家反逆罪に問われて裁判にかけられた日系米国人女性の悲劇的な運命だけでないことは、「声」を聞けばすぐにわかる。『ゼロ・アワー』は「声」の「声」による「声」のための作品であり、それは同時に、視覚に対する聴覚の優位、あるいは視覚が優位とされる時代における聴覚の復権を目指す試みなのだと思う。ジル・ドゥルーズは「ときどきイメージを作りだすこと、芸術、絵画、音楽にこれとは別の目的があるだろうか」と書いたが、この作品ではまさに「声」によってイメージを作りだすことが重要な主題となっている。

やなぎみわ『ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ』 Photo: Hatori Naoshi
それは優れてサミュエル・ベケット的な試みである。サブタイトルの「東京ローズ最後のテープ」はもちろんベケットの『クラップ最後のテープ』のもじりだが、そればかりではなく、舞台にはベケット的要素が頻出する。例えば東京ローズとされた女性アニーを救おうと奮戦する日系米兵のダニエル山田は、冒頭と最後のシーンに盲目の老人として登場する。旧約聖書のダニエルは、いわれのない罪に問われた女を裁判で救うが、『ゼロ・アワー』のダニエルはアニーを救うことができなかった。ダニエルは悔恨の念を抱きつつ、クラップのようにアナウンサーたちの「声」を録音テープで聞き続けるが、盲人や闇の中に生きる老人は『エンドゲーム(勝負の終わり)』を始め、ベケット作品に多数登場する。それにも増してベケット的なのは、ほかならぬ「声」の存在だ。『ねえジョウ』『あしおと』『あのとき』『伴侶』『ロッカバイ』など多くの作品が、姿なき声によって語られ、声が世界を支配する。『ゼロ・アワー』の「声」もまったく同じ役割を果たしている。

やなぎみわ『ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ』 Photo: Hatori Naoshi
最後の場面で、ダニエルが60年以上保管していた傍受録音の「声」が流される。「Good evening, my fellow orphans in the Pacific…」。文字に書けば同じことだが、生身の人間が発するそれぞれの「声」は、ピッチも抑揚もリズムもすべて違う。「声」が変わる度に女たちがひとりずつ召還される。ジェーン、ルーシー、マリー、キャシー、アニーが、亡霊のように舞台に現れるのだ。そして最後にローズの声が流れると……。あまりに衝撃的な結末はここには書かない。いまや盲目となったダニエルの脳裏に、「声」が像を浮かび上がらせることだけを記しておく。「ときどきイメージを作りだすこと」!
最後の場面の最後、溶暗してゆく舞台で、「声」の持ち主5人にふっと白い灯りが当てられる。やがてその灯りも消え、舞台は再び闇に向かって溶けはじめ、5人の姿は残像と化す。その残像は、舞台中央に立ちつくし、自らも消滅しつつあるダニエルが見ているのだろうか。それとも、我々観客が(我々観客だけが)見ているものなのだろうか。答は杳としてわからず、ついには闇がすべてを覆って芝居は終わる。

やなぎみわ『ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ』 Photo: Hatori Naoshi
蛇足をひとつ。『ゼロ・アワー』は、アニーを陥れた元ラジオ東京の技術者、潮見俊也と、アニーを救おうとするダニエル山田との攻防の物語と見ることもできる。それを象徴するかのようにふたりはチェス、しかもブラインドチェスの対局を行い続ける。最終シーンでは千日手に持ち込もうとするダニエルに対し、技量に勝る潮見が千日手を打破し「チェックメイト」を宣言する。この戦いはしかし、もっと深いレベルでは何を象徴しているのか。
ベケットは子宮(womb)と墓場(tomb)の間に宙吊りにされ、救いのない生を生きるほかない人間の不条理を描いた。しかし、死そのものを描いたことはない。対するにやなぎは、唐十郎や寺山修司、フェデリコ・フェリーニらを敬愛し、よりドラマティックな演劇を志向しているように見える。潮見俊也と山田……。『ゼロ・アワー』全編を、「死を見通しや」と「や、まだ」の戦いであると見立てるのは駄洒落と深読みに過ぎるだろうか。

やなぎみわ『ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ』 Photo: Hatori Naoshi
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。