COLUMN

outoftokyo
outoftokyo

Out of Tokyo

248:断片のコレオグラフィー
小崎哲哉
Date: August 18, 2013

あいちトリエンナーレ2013が8/10に開幕した。トリエンナーレにおける僕の肩書きは「パフォーミングアーツ統括プロデューサー」だが、これまでに(名前を貸しただけのたった一例以外)舞台芸術のプロデューサーを務めた経験はない。実際に行った内容からは「プログラムディレクター」と呼ぶのが正しいと思う。演目編成が主な仕事だったからだ。

 

カタログにもウェブやチラシなどにも書いたけれど、15の演目はサミュエル・ベケットの作品とベケットに関連する作品を中心に選んだ。五十嵐太郎芸術監督が定めたトリエンナーレのテーマが「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか: 場所、記憶、そして復活」というものであり、「われわれはどこに立っているのか」という命題を最も深く追究した劇作家(にして詩人にして小説家)は、ベケットであると確信したからだ。

 

ペーター・ヴェルツ | REALTOKYO
ペーター・ヴェルツ

15の内12までが、演劇、ダンス、音楽のパフォーマンスである。残り3つの内1つはベケットのテレビ作品「クワッド」で、あとの2つはペーター・ヴェルツ+ウィリアム・フォーサイスによる映像インスタレーションと、向井山朋子+ジャン・カルマンによるインスタレーション/パフォーマンス。12のパフォーマンスは決まった日時以外は当然上演されないが、3作は10/27の会期終了日まで、休日を除いていつでも鑑賞できる。日本初展示の前者と、トリエンナーレによる委嘱新作である後者について、2回に分けて紹介したい。2作とも「われわれはどこに立っているのか」を問う傑作である。

 

ヴェルツ+フォーサイスの「whenever on on on nohow on | airdrawing」は、ソロで踊るフォーサイスを5台のカメラで捉えた5チャンネルのビデオインスタレーションだ。3台のカメラはフォーサイスの正面、横、頭上に設置され、残りの2台はフォーサイスが両手に装着している。右手のカメラは掌に下向きに、左手は甲に上向きに装着しているので、あえて方向を変えなければ、それぞれはフォーサイス自身の身体と、身体以外すなわち空間を捉えることになる(だが、もちろんフォーサイスはあえて方向を変える)。作品タイトルの「whenever on on on nohow on」は、ベケットが晩年に書いた「いざ最悪の方へ(Worstward Ho)」からヴェルツが発想した文章で、フォーサイスはこの一文を自らの身体を用いて空間に刻み込むように記す。「airdrawing」とはそのことを指している。

 

Peter Welz + William Forsythe "whenever on on on nohow on | airdrawing" 2004 | REALTOKYO
Peter Welz + William Forsythe "whenever on on on nohow on | airdrawing" 2004

2004年の撮影だからフォーサイスは50代半ばのはずだ。だが、体のキレは悪くない、というよりかなり良い。例によって四肢をばらばらに動かすような超人的なダンスで、上半身と下半身を逆に捻ったり、極端な内股のまま前後に動いたり、床に倒れ込んだり体の様々な部分を叩いたり、あらゆる関節を脱臼させたような奇形的なポーズを取ったりする。映像はすべて合わせると100分あるそうだが、ひとつのシークェンスは3分半ほど。50%増の速度で見せるスローモーション映像もあり、5面のスクリーンの細部を同時に観ることは不可能だから、人によっては何十分、いや何時間も楽しめるのではないだろうか。

 

1972年生まれのヴェルツはそもそも彫刻家で、以前にサシャ・ヴァルツ・カンパニーのダンサーを被写体にした「the fall」という映像作品を撮っている。題名が示すとおり、2人のダンサーが倒れ続ける様を写したもので、横から、あるいはガラス越しに真下から撮影した映像を、上下を反転させて投影する場面もある。男女のダンサーは何度も転倒を繰り返す。「whenever〜」の着想のもととなった「いざ最悪の方へ」には「またためす。また失敗する。もっとよく失敗する。(長島確訳。原文は「Try again. Fail again. Fail better.」)という有名なくだりがあるが、自ずとそれが想い出される。ヴェルツは語る。

 

Peter Welz + William Forsythe "whenever on on on nohow on | airdrawing" 2004 | REALTOKYO

「ベケットには大きく影響を受けています。彼が、空間の中で動くフィギュア(figure=形態/人物)を縮減しているということを理解するのには長い時間を費やしました。『ゴドーを待ちながら』には2人の主要人物がいる。『しあわせな日々』の主人公ウィニーは砂山に埋まっている。『私じゃない』に至っては口だけが舞台に登場する。果ては人物が消えて、音だけが観客に語りかける作品もある。フィギュアがだんだん消えていくんです」

 

「『ボディ(body)』と『フィギュア』という2つの観念の間には違いがあります。70年代を始めとして、多くのパフォーマンスが身体と肉体性(physicality)を取り上げてきましたが、私の関心は身体にはありません。空間の中で動くフィギュアにあるのです。この作品(「whenever〜」)も、運動と空間を映像で捉えるところに主眼があります」

 

Peter Welz + William Forsythe "whenever on on on nohow on | airdrawing" 2004 | REALTOKYO

といっても、ヴェルツ自身はカメラなどは一切所有していず、撮影の際にはレンタル機材を用いるという。エドワード・マイブリッジの系譜に連なると評されることもあるが、本人としては、あくまでも彫刻的関心の延長線上に映像インスタレーションがあるということだろう。インスタレーションというよりも、「空間彫刻」と呼ぶべきかもしれない。

 

「観客は、フォーサイスの動きに合わせて空間の中を動くことになります。スクリーンも各々が交差し合っていて、前、横、上、ハンドカメラによる映像があらゆるフィギュアを映し出す。これはコラージュのコレオグラフィー、断片のコレオグラフィーなのです」

 

Peter Welz + William Forsythe "whenever on on on nohow on | airdrawing" 2004 | REALTOKYO

ちなみに言えば、東京国立近代美術館から豊田市美術館に巡回した「フランシス・ベーコン展」で展示される映像インスタレーション「重訳|絶筆、未完の肖像(フランシス・ベーコン)|人物像を描きこむ人物像(テイク2)」は「whenever〜」の姉妹作的作品にあたる。本作と同じ「空間彫刻」だ。豊田市美のベーコン展は9/1まで、あいちトリエンナーレは上述したように10/27まで。ぜひ併せてご覧いただきたい。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。