COLUMN

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Out of Tokyo

245:ARICAの『ネエアンタ』
小崎哲哉
Date: April 03, 2013

サミュエル・ベケットの『ねえジョウ』はテレビのために書かれた1966年の作品である。画面には男優ひとりしか登場しない。主人公ジョウを務めるこの男優は一切言葉を発さず、姿を見せない女の声が「ジョウ、ねえジョウ?」とひたすら問いかけ、語りかけ続ける。この作品に想を得たという『ネエアンタ』という芝居を、ジョウに当たる役にダンサーの山崎広太を迎え、劇団ARICAが上演した(3/1@森下スタジオ)。

 

ARICA『ネエアンタ』 撮影:宮内 勝 | REALTOKYO
撮影:宮内 勝

上手手前に扉がひとつ。そこから2メートルほどの橋がかり的な通路があって主舞台となる。床も舞台奥も真っ白に塗られているが左右に壁はない。何もない空間は床や奥の壁とは対照的に真っ黒・真っ暗で、舞台は巨大な菓子箱か何かの展開図に見える。上手奥に簡素なベッド、下手奥にカーテンの掛かった窓、下手手前に冷蔵庫、そして天井から小さな裸電球。基調色の白(と黒)と相俟って、非常にミニマルな印象を受ける。

 

暗転後、灯りが点くと、パジャマに赤いガウンを羽織った山崎がベッドに座っている。数分間微動だにせず、その内に電球が明滅し始める。明滅が終わると、ゆっくりと立ち上がり、カーテンを開け、窓の外を見つめ、カーテンを引き……とほぼベケットの原作が指示する通りの演技を行う。ベッドに戻って座り直し、しばらく経つと女の声が聞こえてくる。

 

「ねえ……ねえ……ぜんぶよく考えてみた?……なにも忘れていない? ……だいじょうぶ……誰もみてはいないから……あんたをいじめる人はいない……ライト消そう……」「あんたが心と呼んでいるのは地獄、ブレーキもハンドルもきかない自転車乗って地獄行き……このわたしの声が聞こえてくるのは、地獄からだと思っているんだろ……あんたの父さんの声が聞こえてくるのも同じところから……そうわたしに言わなかった? ……」「あんたを愛する人はまだ生きている?……あんたが死ぬと悲しむ人はまだ誰か生きている? 土曜日にやってくるあの淫売、あんた彼女を買ってる?……1回1万、好きなだけやりたいなら2万……破産しないよう気をつけてよ……」

 

台詞は、聖書の引喩やキリスト教的な言い回しがいくぶん省略されてはいるが、やはり原作と大差ない。こなれた訳で、非キリスト教徒の現代人の頭にすんなり入ってくるよう配慮されている。大きな違いはもちろん、「テレビジョンのための作品」を舞台化したことから来ていて、原作で段落の終わりに挿入される(あるいは段落を区切る役割を担う)「カメラ前進」は、この公演では裸電球の明滅と、「舞台の前進」に取って代わられている。そう、舞台奥の壁とベッドが段々と前に進んできて、観客と舞台との距離は文字どおり縮められてゆくのだ。さらに、控えめだが十分に効果的な音楽と、冷蔵庫の音などの音響がときおり用いられ、「声」以外はまったく無音の原作と著しい対照をなす。

 

ARICA『ネエアンタ』 撮影:宮内 勝 | REALTOKYO
撮影:宮内 勝

だが、最大の相違点は、「声」を発する「女」の肉体が、物理的に舞台に登場することだろう。最初は手だけ。次に全身。はては、あろうことか(竹馬に乗って?)倍の背丈になって。ARICAの看板女優、というより正規の俳優は安藤朋子ひとりで、多くの観客が安藤のファンであるだろう。かく言う僕もそのひとりであり、声の出演だけかと半ば覚悟していたから、うれしい驚きだった。

 

しかしこれは、演出的には相当に大胆な、保守的なベケット・ファンからは顰蹙を買いかねない冒険である。他の多くのベケット作品と同様、『ねえジョウ』の主人公は「ほとんど着くところへ着きかかってる」(高橋康也訳)孤独な存在であり、「声」は「あんたが頭って呼んでいるその安ものの地獄」(同)の中に自ずと響き渡っている。つまり主人公が存する空間は、本人の頭(「安ものの地獄」)の中を換喩的に象徴していて、我々観客はそれを覗き見ていると解すべきだろう。『ネエアンタ』において、そこに「女」の肉体を現前させる必然性は何なのだろうか。演技から察するに、主人公に「声」は聞こえているが、「女」は見えていない。だとすれば、この「女」とはいったい誰なのか?

 

ARICA『ネエアンタ』 撮影:宮内 勝 | REALTOKYO
撮影:宮内 勝

答は空間そのものの中に、そして演出そのものの中に見出しうるだろう。舞台空間には、扉、窓、冷蔵庫、舞台袖という4つの出入口あるいは開口部がある。「女」はその内のふたつ、扉と舞台袖を使って空間を出入りする。窓を超えることはないが、ペットボトルの水を飲みながら扉から入ってきて、冷蔵庫の中にボトルをしまうシーンはある。冷蔵庫の中は、むろん観客には見えない。だが扉の外と舞台袖は真っ黒・真っ暗な空間であり、それは通常の劇場とは違って、観客にも視認できる。

 

印象的な場面がふたつあって、ひとつは上に書いた冷蔵庫を用いたシーンである。「女」がボトルをしまった後、主人公が冷蔵庫の扉を開け、中に上半身を突っ込み、ボトルを取り出してから扉を閉める。同時に、舞台奥に向かっていた「女」がベッドに倒れ込み、ひっくり返って、高々と上げた両足を左右に開く。

 

もうひとつは最後の場面。「声」が消えてから、「女」が扉から入ってくる。前進してきていた壁が奥のほうに戻ってゆき、ベッドと冷蔵庫だけが残された舞台前面で、主人公が身を震わせ始める。「女」が背後に回り、突然ペットボトルを手と口で潰し、「やー!」と声を上げてベッドに跳躍し、そのまま舞台後方へとベッドを押してゆく。主人公はその瞬間、動きを止め、体の力を抜き、立ちつくす。大音響の音楽が鳴り、暗転して終幕。

 

ARICA『ネエアンタ』 撮影:宮内 勝 | REALTOKYO
撮影:宮内 勝

ベケット作品における部屋(room)は、子宮(womb)であり墓(tomb)であると言われるが、このふたつのシーンはあからさまな子宮=誕生と墓=死の描写である。主人公のガウンが赤いのも、産衣と屍衣の双方を表しているのではないか。ただし、ベケット的世界にあっては死は常に宙吊りにされ、このように死の瞬間=終わりが明示されることはない。逆に言えば『ネエアンタ』の演出家・藤田康城は、この点において『ねえジョウ』を超える、あるいは『ねえジョウ』とは違うものを創出しようとしたのだろう。

 

密室の中の老人というのは、きわめてベケット的な風景である。戯曲『クラップの最後のテープ』しかり、同じく『勝負の終わり』しかり、唯一の映画作品『フィルム』しかり。小説『モロイ』では、主人公は母親の寝室に入って死を待っている(らしい)のだが、大部の『ベケット伝』を書いたジェイムズ・ノウルソンによれば、「モロイの根底的問題は母を見つけることである——〈個人的母〉ではなく、彼のアニマの主たる変形としての、〈内なる母〉である」と論じている研究者がいるという。

 

ARICAの『ネエアンタ』において、主題は(少なくとも主題のひとつは)「母」なのだと思う。安藤は「声」も演じていたが(しかも録音ではなく、表で「女」を演じつつ舞台裏で発話していたというが)、「声」の主たる「女」ではなく「母」を、それも「内なる普遍的な母」を演じていたのではないか。ロン・ミュエクの巨大な母親像は赤ん坊の視点で見たもので、だからあれだけ大きいと言われるが、同じ理由で「女」は、倍の背丈になったのではないか。扉の外や舞台袖の真っ黒・真っ暗な空間は、さらには冷蔵庫の奥は、ギュスターヴ・クールベの作品タイトルを借りれば「世界の起源」なのではないか。

 

上に書いたように、保守的なベケット・ファンは『ネエアンタ』がベケット的であるとは認めないかもしれない。だが、古典は新しい解釈を生み出す宿命にあり、だからこそ古典であるのだと思う。『ネエアンタ』の「冒険」に喝采を贈りたい。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。