


多くの批評家が指摘するように(『早稲田文学』5号、『文藝春秋』『文學界』3月号など)、黒田夏子の「abさんご」は一見取っつきにくく、だが読み進めるときわめて味わい深い短編小説だ。小さな家族の崩壊の歴史という主題は陳腐とさえ呼びうるもので、その意味で物語に違和感を覚える者はさほど多くはないだろう。取っつきにくさは、ひらがなの多用、カタカナの不使用、文章の息の長さ、固有名詞と代名詞の忌避、日本語の用法の(学校で習うそれとは違うという意味での)逸脱などに由来する。例えばこんな具合である。
「両がわからかしぎかかる垣にまつわりあふれそのまま道の草にからみひろがるつる植物の放埒にどうかするとこころもとなくゆらぐ視界に, その草が天をさすのをたのみにこのんでその道を通りならわしていた小児は, やがて石も穴も足うらがおぼえて, その道の空の色, その道の鳥の声, その道の十時の匂い十一時の匂いとなじみおぼれた. 宵やみによろめくことなくひといきに走りぬけるあそび, 足もとからひかりにげる青い虹のような小爬虫類との出あいの回数を予見するあそび, その土地にはごくまれな積雪の日, 枯れてかさのへった草たちをひれふさせて土もみぞも白一色なのを, 道のさそう目かくしあそびと応じもした.」
こうした文章に初めて出会ったとき、滞りなく一気に読み下すのは容易ではない。物語が線的には進んでゆかない断章形式だということもあって、多くの読者はゆっくりと時間をかけて読むことを強いられ、あまつさえ何度か読み返す羽目にも陥るだろう。僕は都合3回読み返し、読み通したが、非常に快いテキスト体験だった。
その後、必要があってサミュエル・ベケットの「あのとき」の原文を、高橋康也の和訳の助けを借りてやはり3度読んだ。不眠の床か病床、いや、おそらくは死の床に就いている男の耳に、青年・中年・老年期の思い出を語る当人の3つの声が聞こえてくる。語られる内容はそれほど突飛ではなく、青年期の恋愛に関する挿話など、やはり陳腐と思えるほどに感傷的だ。ただしこの回想的な独白は、口語であるがゆえに言いよどみや繰り返しが多数含まれ、「abさんご」と同じく決して読みやすくはない。

台詞のすべてに句読点が一切ないことも、読書を難儀なものにする。読者は(特に英語ネイティブでない読者は)何度となく立ち止まり、場合によっては数行前に戻り、意味と理路をつかむために読み返さなければならない。必然的に読書のペースは遅くなり、これが「abさんご」の場合と同様に「遅さゆえの快楽」とも呼ぶべきものを呼び起こす。句読点のない文章は、いわゆる「意識の流れ」の文学者が始めたとされている。ベケットが助手を務めたジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』が有名だが、ベケット自身も小説『事の次第』でこの手法を用いている。「あのとき」では、例えばこんな具合である。
「あるいは自分に話しかけてだってほかの誰に話しかけるっていうんだ声を出して空想の相手と会話をしてるそれがおまえの少年時代ってものだった十のときか十一のときか石の上でばかでかい刺草にかこまれてあれこれと声色を使ってしまいに声がかれてどの声も同じになっちゃうんだが夜がふけるまでまっくらやみだったか月夜だったか気分を出してそんなことをしてる家の人がみんな血眼になっておまえを探しているというのに」
「or talking to yourself who else out loud imaginary conversations there was childhood for you ten or eleven on a stone among the giant nettles making it up now one voice now another till you were hoarse and they all sounded the same well on into the night some moods in the black dark or moonlight and they all out on the roads looking for you」
スローフードならぬスロー読書がなぜ快いかといえば、もちろん内在化の度合が深くなるからだ。「このんでその道を通りならわして」ゆけば描写や表現を脳が「おぼえ」、テキストが描き出す世界に「なじみおぼれる」ことができる。あるいは「声を出して空想の相手と会話を」すれば、「気分を出」せるということかもしれない。僕は3度とも黙読だったけれど、1度くらいは声を出して読んでみればよかったと思っている。

ところで、なぜ「あのとき」を原語で読んだかというと、アイルランドの劇団マウス オン ファイアが「あのとき」を含む後期ベケットの小品4作を東京で上演したからだ(2/13〜17@シアターX。筆者が観たのは2/15のマチネ公演)。後期ベケット作品が上演されることは、少なくとも日本では非常に珍しい。その上演が劇団の希望により「日本語字幕なし」となったので、事前に台本を読むことにした次第である。

ベケットは自作の上演に際して、字句の変更を一切認めず、演出上のあらゆる指示の遵守を厳格に求めたことで知られる。ベケット研究家の堀真理子氏がパンフレットに寄せた文章によると、「(マウス オン ファイアの)俳優の多くはまだ若い。メリッサ・ノランやマーカス・ラムらは往年の俳優が残した経験談やベケットが残した演出ノートを丹念に読み、それらを再現すべく、次世代の『ベケット俳優』をめざして活動を始めた。その優れた演技はすでに、『ベケットの作品を供給するもっとも優れた者』と称賛されている」とのことで、見事に正統派の舞台だった。劇団と、劇団を招聘したシアターXに拍手を贈りたい。

終演後に劇団員を囲むトークがあったので、芸術監督のカハル・クイン氏に質問してみた。「あのとき」の台本に句読点はないが、実際の上演ではあたかも句読点があるかのように台詞が区切られ、発話されていた。句読点なしのまま演出することは検討されたか、また、そのように演出されるケースは、ベケット上演史の中でこれまであっただろうか、と。クイン氏の回答は明快だった。「私が知る限り句読点なしの上演が行われたことはない。生身の人間は息継ぎする必要があるので、句読点なしは不可能だろう。今回の上演では(俳優の台詞は事前録音なので)、録音後の編集で息継ぎ音をカットした」

管楽器の演奏とは異なり、循環呼吸は無理だということだろうが、僕の質問の真意というか知りたいことは少し別の点にあった。上述したように、戯曲の読者には単語同士のつながり、したがって意味の連なりと理路の流れがすぐにはつかめず、それがゆえの「宙吊りの快楽」と、宙吊り状態からの解放感をともに味わうことができる。同じことが生の舞台で成立しないだろうかと、素人ゆえの(非ネイティブゆえの?)素朴な疑問を抱いたのだ。
不可能であれば仕方がない。舞台と読書の楽しみは別の次元に属するのだろうし、やはり次回は声に出して読んでみよう。循環呼吸にも挑戦しつつ、もちろんゆっくりと。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。