COLUMN

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Out of Tokyo

241:「現にいま起こっていること」とアート II
小崎哲哉
Date: September 04, 2012

承前=Out of Tokyo239の続き)

 

『大地の芸術祭』(越後妻有アートトリエンナーレ2012)と『水と土の芸術祭2012』を駆け足で見てきた。同じ週末にフジロックにも行ったから本当に駆け足だ。前者の目玉は、芸術祭オープニング当日(7/29)に開館した越後妻有里山現代美術館/キナーレだろう。

 

Christian Boltanski "No Man's Land" | REALTOKYO
Christian Boltanski "No Man’s Land"

まず目に入るのは、真四角な建物の中庭に積み上げられた古着の山である。真上にはクレーンがあって、下降して古着の一部を掴み、上昇してそれを離すというシーシュポスにも似た(あるいはUFOキャッチャー的な)行為を延々と繰り返す。クリスチャン・ボルタンスキーが2010年にパリのグラン・パレで発表したインスタレーションの変奏。約20トンという古着を前に、大量生産・大量消費時代の愚を感じるか、スクラップ&ビルドの空しさを連想するか、個々人の記憶に思いを馳せるかは観る者に委ねられている。

 

Carsten Hoeller "Rolling Cylinder", 2012 | REALTOKYO
Carsten Hoeller "Rolling Cylinder", 2012

他の作品は、主に建物の2階に展示されている。理容室のサインの内側に入ったかのようなカールステン・ヘラーのトンネル型作品や、鉄道模型に小さなライトを載せてジオラマの影を映し出すクワクボリョウタの幻想的な空間など、娯楽性の高いインスタレーションが多い。エルムグリーン&ドラッグセットは例によってアートという制度をからかうようなオブジェ作品を、カールステン・ニコライは信濃川の「水」「波動」「共鳴」を主題に、これもいつもと違わず技術的に精緻な作品を作っていたが、彼らに限らずどの作家も1点のみの展示なので、背景にある思想や問題意識を感じ取るのは難しい。

 

要するにキナーレのほとんどの展示を観る限り、やはり「祭」に重きが置かれていると言わざるを得ない(Out of Tokyo 221を参照)。その中にあって(キナーレ以外の展示も含めて)、やはりボルタンスキーは偉大である。時事的な事件を扱っているわけではないが、これはこれで「現にいま起こっていること」に向き合っている。長いスパンで、歴史と記憶、現代文明の諸問題、人間の尊厳と愚かさなどの普遍的な主題に対峙する傑作だと思う。

 

Otomo Yoshihide x Ameya Norimizu tachi "Smile" | REALTOKYO
Otomo Yoshihide x Ameya Norimizu tachi "Smile"

『水と土の芸術祭』では、メイン会場・万代島旧水揚場「大かまぼこ」の、大友良英×飴屋法水たちによる展示が大迫力だった。ガイドブックには「水辺を臨む巨大空間で音と造形によるインスタレーションを展開。漁業の営みの跡や外の風景といったその場の環境をたぶんに取り込み、気配と痕跡に満ちた世界が出現します」とあるが、これでは何も伝わらないだろう。実際の作品は、この描写から想像されるようにのどかで静的でおとなしいものではなく、はるかに不穏で野蛮で激越なものだった。

 

Otomo Yoshihide x Ameya Norimizu tachi "Smile" | REALTOKYO
Otomo Yoshihide x Ameya Norimizu tachi "Smile"
Otomo Yoshihide x Ameya Norimizu tachi "Smile" | REALTOKYO
Otomo Yoshihide x Ameya Norimizu tachi "Smile"

2,850平米あるという「大かまぼこ」の3分の2くらいの床に、様々なものがぶちまけられている。骨組みだけにされた木造家屋と家財、砕けたタイル板、曲がった交通標識、壊れた自転車、古びた牛乳瓶、電気スタンド、冷蔵庫、水槽など。詰め所のような一室には、「活魚情報」を記していた黒板、水着姿の女性のカレンダー、一升瓶の空き瓶、まとめて吊されたゴム手袋がある。それらの合間や壁で区切られた別室に、ピアノやギター、シンバルやターンテーブルなどが配置されている。そういった楽器や、目立たないように設置された小さなスピーカー群から、ときおり楽音やノイズが流れ出る。安手のドラマのように感情を盛り上げるのではなく、抑制的でありながら緊張感を高めもするタイプの音だ。

 

新潟は歴史上、水害や地震に何度も見舞われた土地だ。だが「大かまぼこ」を訪れた者は誰しも、3.11を思い出さずにはいられないだろう。鑑賞者がここで目にするのは、ひとことで言えば「瓦礫の山」である。越後妻有のボルタンスキー作品と同様、この作品においても「量」が我々の感覚に強く訴えかける。大友は音楽家だから当たり前だが、上述した音が作品に一本筋を通している。Max/MSPで制御しているそうだが、一見(一聴)してそれに気付く者はいないのではないか。配慮と計算の行き届いた音像設計だ。

 

Otomo Yoshihide x Ameya Norimizu tachi "Smile" | REALTOKYO
Otomo Yoshihide x Ameya Norimizu tachi "Smile"

かつては水揚げを行っていた海に面する開口部には、履き古された靴が大量に並べられていた。別の一角には、同じく使い古された家電製品があった。いずれも、作家が呼びかけて、鑑賞者が持ち寄ったものだ。靴はどう置いてもいいのだろうが、ほとんどが靴の先を海に向けていた。短靴、長靴、サンダル、スニーカー……。大きいのも小さいのも、メンズもレディースもあった。僕も、前日にフジロックで履きつぶした靴を置いていった。ほかの靴と同じく、先っぽを海のほうに向けて。

 

Otomo Yoshihide x Ameya Norimizu tachi "Smile" | REALTOKYO
Otomo Yoshihide x Ameya Norimizu tachi "Smile"

大友良英たちは今年も『フェスティバルFUKUSHIMA!』を企画・開催した。「旗」をテーマとした今回の内容は<http://www.pj-fukushima.jp/festival/>に記されている。「現にいま起こっていること」に誠実に、そして執拗に向き合っている表現者たちがここにいる。

 

 

 

Out of Tokyo 240 追記

「奈良美智氏の反論」が『ART iT』に掲載された(8/14)。これで議論が前に進めばいいが、「反論」はやはりファヴェルの英語原文ではなく、誤訳が多い日本語訳に基づいている。例えば「彼の作品の幅は、オークションで100万ドルを越す有名な絵画から野外市で数ドルで売られる大量生産された商業的な商品にまで及んだ。しかし、大きな儲けは大量の在庫商品がある中間クラスの蒐集品からであった」という訳文に対して、奈良は「大量の在庫作品を、僕は持っていません。正直、発表するたびに、作品は売れて行きました。各ギャラリーにセールス状況を聞けば簡単にわかるはずです。「大きな儲け」という言葉を使っていますがいかに大量に版画があったとしても、その収益は絵画作品2,3点に及びませんもしかして筆者は、作家自身には1銭も入らないセカンダリー市場のことを言っているのでしょうか?」と反論している。

 

だが、後半部分のファヴェル英語原文は「But the big money was always in the middle range of collectibles, where his inventory was massive.」。つまり「だが大きな収益源は常に、中間領域にある収集可能なアイテムだった。そのリストは長大なものだった」というくらいの意味だ。したがって議論は噛み合わず、日本語版読者はまだしも、ファヴェルを含む英語版読者は、奈良が何を問題にしているのかわからないに違いない。議論が噛み合っていないことの非は、前回のコラムに書いたように、やはり誤訳を掲載した「ファヴェル側」にある。だが、これまでと違うのは、奈良の「反論」はART iT編集部に要請されて書かれた依頼原稿であり、すなわちブログではないという点だ。だとすれば編集部は、今度こそ「ファヴェル側」として、(少なくとも奈良が指摘した部分について)「誤訳」と「正しい訳」を両方載せるべきだろう。それこそが媒体責任というものだと僕は思う。

(追記終わり)

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。