
(前回の続編を書くつもりだったが、予定を変更する。続編は次回以降に掲載する)
英国人ジャーナリスト、エイドリアン・ファヴェルが、オンラインアートマガジン『ART iT』内の「公式ブログ」に書いた文章が物議を醸している。7月12日に公開されたもので、タイトルは「Yoshitomo Nara as Businessman/ビジネスマンとしての奈良美智」。現在は英語原文のみだが、当初は日本語訳が段落ごとに併載されていた。
この文章に、奈良美智本人が「激怒」して、8月5日にツイートを連投した。曰く「会ったこともない外人が、事実関係の下調べ無しに、想像で書いている文章。こういうふうに思う人は、その人自体がそういう人なんだと思う。かなり頭にきていて、訴えようかと思い中・・・困るよなぁ・・・!」「美術関係者はRTして広めてください。ホント頭に来るなぁ!嘘ばっかしの文章。こういうことを英語圏の人々が信じていくのかなぁ。ART-ITの責任者は何とかしてほしい。よっぽど、僕の事が気に食わない人なんだろう、コイツは。今まで、コピー商品も訴えたことはなかったけど、これはね~!」「あ~東電並みに頭きたわ!コイツの知り合いの、心ある方々は、言ってやってください。こんな奴が、知ったかぶりして日本の美術を世界に向けて語ってるは許せない!糞ったれのウンコ野郎!」
奈良のツイートに反応して、村上隆は同日、以下のようにツイートした。ただし、7日にはすべて削除している。「「ART IT」は編集部として、こうした妄想の文章を「ART IT」の冠の元、モノ申すなら、その信憑性の無いことを、村上隆、奈良美智、両アーティストから言おうとおもう。編集長の姿勢を問う!」「僕的には個人ブログならいいとして「ART IT」の冠の元、書かれた文章である、ということが問題である。このライターのニーズは続くであろう。こういう虚言を消費したい大衆はいるのだから。しかし、メディアの母体がそうしたことを精査しないでどうする?」
僕は2010年3月に『ART iT』の編集長を退任し、同時に(株)アートイットを退社している。だから無関係を決め込んでもいいのかもしれないが、辞める前に置き土産として、「公式ブログ」を始め現状の「www.art-it.asia」の枠組をすべて提案し、構築させたのは僕にほかならない。それがこの文章を書く理由のひとつだ。エイドリアン・ファヴェルの「公式ブログ」執筆は、本人から売り込みがあったのか、誰かから推薦されたのか忘れたけれど、2009年7月に「一般ブログ」から「公式ブログ」に「昇格」させることを編集長として承認・指示した。「一般ブログ」は、原則的に誰でも書くことができるが、「公式」となるとトップページに更新情報が載り、注目率が高まる。書き手は、アーティスト、キュレーター、ギャラリスト、ジャーナリストら、アート業界の人々に限られる。
奈良美智は億万長者になったいまも、美食に耽るわけでもブランド品に身を固めるわけでもなく、金銭には無頓着に見える。作品制作には心底から打ち込んでいて、スタッフやボランティアらへの気遣いも感じられる。そんなアーティストに対して「ビジネスマン」と形容し、「ビジネス」のやり方について事細かに書いたのだから、奈良が傷つき、「頭にき」たのはよくわかる。まして事実誤認があったのであれば大問題だ。奈良は、8月7日に「とにかく、事実を追加したテキストをART iTに送ります。それはまた、編集部からの提案でもあります」とツイートしているから、水掛け論にならない限り、真実はいずれ明らかになるだろう。
「事実誤認」についてひとつだけ書いておく。奈良は8月6日のツイートで、「わかりやすい一例」として「2011年3月以降、僕が理事になり慈善NPOを立ち上げ自分の美術活動を立ち上げた」という箇所を取り上げ、「そんな感じの間違いが多数ある」と記している。当該箇所の原文を少し長めに引用すると、まず和文は以下の通りである。「彼の弘前での組織的な実験は荒々しいバブル経済後や阪神大震災後の日本の気持ちにどれほどうまく踏み入ったかで印象的だった。その同じ精神は、また2011年の3月 以降にも見られた。地元の助けを借り、彼は自分を眠った理事につけ慈善NPOとしての自分の美術活動を立ち上げた」。ところが、英語原文は「His organisational experiments in his home town, Hirosaki, were striking for how well they tapped into a different feeling in Japan after the Kobe earthquake of 1995 – the same spirit as seen again after March 2011. With local aid, he set up his art operation as a charitable NPO, with himself as a sleeping director.」、すなわち「故郷弘前における彼の組織的な実験は、1995年の阪神大震災以降の日本において、ある別の感情を非常に巧みに引き出したという点でめざましいものだった。2011年3月の後に、再び見られるようになったものと同じ精神である。地元の人々の助力によって、彼は自作の制作作業を慈善的NPOとして立ち上げ、自らは名目のみの理事職に収まったのである」という意であり(小崎試訳)、原文の和訳は明らかに誤訳である。記述は2006年の『A to Z』展についてのもので、「慈善的NPO」というのはボランティアチームの比喩的表現にすぎないだろう。
もちろんこれはファヴェル側が翻訳し、掲載したものであり、奈良を含む日本語読者はこの誤訳を目にするのだから、非は明確にファヴェル側にある。だが問題は、誤訳及び事実誤認(がもしあるなら)について「ファヴェル側」に『ART iT』が含まれるかどうかである。いわゆる「媒体責任」。「個人ブログならいいとして「ART IT」の冠の元、書かれた文章である、ということが問題である。(中略)メディアの母体がそうしたことを精査しないでどうする?」と主張する村上隆は、媒体責任はあると断じているわけだ。
僕は媒体責任はないと思う。だってブログなんだから。ネット上のSNSで個人が発信する文章は、そもそも「精査」はおろか、媒体による依頼・編集・校閲など行わせない、というところから始まっている。自発性と速報性こそが命であり、拙速による誤記・誤報や意図的なネタややらせがあったとしても、それは後日、多数読者の批判と検証によって淘汰・修正される。是非はともかくとして、そういう暗黙の了解の上で、ほとんどのネットメディアは成長し、現在に至っているのではなかったか。
リアルタイムメディアとはそういうものであり、裏が取れない(裏を取る時間を省いた)以上、既存のジャーナリズムとは決定的に異なる。だからこそブログ(のあるもの)は面白く、だからこそブログ(のあるもの)は信用できない。ファヴェルの文章の大部分はすでに刊行された自著の引用であり、それ自体は裏を取り得た/取るべきものだが、それは本人と原著出版社が行うべきことであってブログメディアに求めることではない。
奈良のツイートに共鳴した人々の多くが「事実関係の下調べ無しに」という箇所に反応し、憤りを露わにしている。上に書いたように、それが本当であれば言語道断だが、それ以前にこの問題についての「事実」を自ら確かめるべきだろう。例えば、社会学的な分析として書かれたファヴェルの文章を、アート批評と思い込んで批判している書き手がいる。一方で、上記の「誤訳」について指摘した人は僕が知る限り存在しない。原文を読むことなく、すなわち「事実」に当たることなく、2次情報のみに反応しているからだろう。これもまたブログを含むSNSの特徴であり、限界であるのかもしれない。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。