

Collection: Barjeel Art Foundation
Courtesy: XVA Gallery
森美術館で開催中の『アラブ・エクスプレス』展(10/28まで)は、「日本で初めてアラブの現代美術に焦点を当てる」と謳う展覧会である。なるほど、「外から見た(実際には存在しない)ステレオタイプのアラブ女性像」を描いたというハリーム・アル・カリームの写真作品に始まり、約30組のアーティストによって2000年代に制作された絵画、写真、映像、インスタレーションを紹介する同展はなかなか意欲的で、それぞれの作品の質も高い。別途開催されているレクチャーなども含め、アラブのアートに初めて触れる観客に十分配慮した好企画と言ってよいだろう。だが、いまひとつ引き込まれなかったのは、直前にヨーロッパで『ドクメンタ』や『パリ・トリエンナーレ』を観ていたからだ。
『ドクメンタ』は本来の開催地カッセルに加え、カーブル、カイロ-アレクサンドリア、それにバンフを会場としていた。カナダのバンフは別として、アフガニスタンとエジプトを選んだのは、今世紀に入っても続く中東の激動に、主催者・企画者が極めて強い関心を寄せていることを示している。
カッセルにおいては、例えば米国人アーティストのマイケル・ラコヴィッツは、第2次大戦中に連合軍の爆撃によって失われたカッセルの書物を、2001年にターリバーンが破壊した仏像があった地域の石を用いて、アフガニスタンとイタリアの石工の助力を得て復元した「石の本」を展示した。メキシコ人アーティストのマリオ・ガルシア・トレスは、1970年代にアリギエロ・ボエッティが自ら運営していたゲストハウス跡をカーブルに訪ね、映像作品を制作・発表した。イタリア人アーティストのボエッティが、72年のドクメンタ5に出展した代表作「マッパ(地図)」を構想した、まさにその場所である。「マッパ」そのものも、ぬかりなく別室に展示されていた。


レバノンのアーティストで、劇作家でもあるラビア・ムルエは(2007年に『東京国際芸術祭』に参加しているが)、いまも続くシリア内戦における銃撃を主題とした作品を、レクチャーパフォーマンス、映像インスタレーション、フリップブック(パラパラ漫画)など様々な形で発表した。ネットから落としたという映像には、戦車を動画撮影していた携帯電話の持ち主が、兵士と目が合った直後に狙撃され、携帯ごと倒れて画面が乱れ、最後に地面が映るというものも含まれる。実際に起こったものか作りものなのかはわからないが、観る者に衝撃を与えずにはいられない臨場感あふれる映像だ。

『パリ・トリエンナーレ』でも、中東からの参加アーティストや、イスラムやアラブ世界のアクチュアリティを主題とした作品が目立った。チリ出身のアルフレッド・ジャーは、ダブルチャンネルのビデオで、ウサーマ・ビン・ラーディン殺害を取り上げた。2011年5月に米軍がアルカーイダの指導者を殺した瞬間を、ホワイトハウスの危機管理室で見守る大統領以下オバマ政権の要人たち。西側メディアによって世界中に配信されたこの映像が、静止したまま右側のスクリーンに映し出される。要人たちの視線の先に設置された左側のスクリーンには、もちろん何も映し出されはしない。合衆国政権中枢が握っている強大な権力と、彼らスーパー権力者たちの視覚がいかに特権的・独占的であるかを、カラーと白(ブランク)の対比的な画面で鮮やかに描き出した傑作だと思う。

スイス生まれのトーマス・ヒルシュホルンは、子供には見せられないような映像作品を出展した。スマートフォンの画面のようなタッチスクリーン上を、作家自身のものとおぼしき指先が素早く動いて夥しい写真を次々に現出させる。いずれもがデモの際に狙撃された、あるいは戦争や内戦、爆弾テロなどで殺害された犠牲者たち、つまりは死体の映像である。指は気の向くまま、自在に映像を拡大・縮小する。潰れた顔や、穴の開いた胴体や、ちぎれた手足が頻出し、観続けていると現実感が次第に失われてくる。必ずしもアラブ地域の写真ばかりではないが、ムルエ、ジャーと同じく、今日における暴力と映像(視覚)の関係を追究した、シンプルだが力強い作品だ。

『ドクメンタ』においても『パリ・トリエンナーレ』においても、作家と企画者の関心は「現にいま起こっていること」に向けられている。どちらかと言えば「アラブ現代史」を紹介しようと努める森美術館の姿勢とはそこが違う。文法用語にたとえて言えば、前者が「現在進行形」なのに対し、後者は「現在完了形」なのだ。具体的に指摘するなら、『アラブ・エクスプレス』展の作品に中東戦争は出てくるが、2010年の年末に始まり、現在もなお続いている「アラブの春」に言及したものはない。
だからと言って森美術館を非難しているのではない。ヨーロッパと日本とでは、アラブへの地理的・歴史的・社会的・心理的距離があまりに違いすぎる。我々極東に暮らす者が「アラブの春」の背景を理解するには、まず『アラブ・エクスプレス』展的な展示から入る必要があるだろう。その目的にうってつけのよく出来た展示であることは冒頭に書いたとおりだ。それに、美術館における展示は国際展におけるそれとは性格や制作過程が大いに異なる。「日本で初めて」ということもあり、あるまとまった地域を通覧する企画の場合には、ある程度評価が定まった(つまり、既に制作され、発表された)作品を中心に据えるのは正統的な手法と言える。『ドクメンタ』がマリオ・ガルシア・トレスに依頼したように、作家に新作を委嘱することはあまりない。
だとすれば、日本で開催される国際展が「現にいま起こっていること」をどれだけ取り入れているか、取り入れようとしているかが気になってくる。もちろん、地理的・歴史的・社会的・心理的距離が我々と近い地域のことでかまわない。折しも新潟で、『大地の芸術祭』(越後妻有アートトリエンナーレ)と『水と土の芸術祭』が始まったばかりだ。次回は新潟で気がついたことについてレポートしたい。
(この項、続く)
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。