
来年の夏に開催される『あいちトリエンナーレ2013』で、舞台芸術の統括プロデューサーを務めることになった。そこで5月末から6月中旬にかけて、ヨーロッパ3ヶ国を回ってきた。招聘を検討している表現者、カンパニー、関係者との会合、それに視察が目的である。カッセルで開催中の『ドクメンタ13』や、パリのパレ・ド・トーキョーで開かれている『ラ・トリエンナーレ』(通称『パリ・トリエンナーレ』)も観たけれど、以下に記すのはパフォーミングアーツについてのみ。なお、この記事で取り上げた表現者やカンパニーを『あいち』に呼ぶわけでは必ずしもない。

ドレスデンではフォーサイス・カンパニーの『Yes, We Can't』を観た。サミュエル・ベケットが『いざ最悪の方へ』に書いた「またためす。また失敗する。もっと良く失敗する」(長島確訳)というフレーズに触発されて作られたダンス作品だが、カンパニーは公演直前に不幸に見舞われた。ダンサー3人がモノ・ウィルスに感染したために舞台に上がれず、構成と振付の変更を余儀なくされたのだ。確かに、YouTubeなどで事前に観ていた映像とは違って、台詞や歌はほとんどなく、振付も違っていて、とはいえ上述のフレーズから連想される試行錯誤の様が、最初は奇形的な、後半では端正な動きによって見事に表現されていると感じた。だが、フォーサイス自身は満足していなかったようで、上演後に本人に聞いてみたところ「It was an expensive rehearsal.」と苦笑していた。ダンサーたちに言わせると「ビルは毎回振付を変えたがっているから喜んでいるはず。これからも作品は変わり続けると思う」とのこと。相変わらず貪欲な振付家である。

アムステルダムの『オランダ・フェスティバル』は、例年どおり強力なプログラムだった。目玉と呼ぶべきロバート・ウィルソンの『The Life and Death of Marina Abramovic』、ウィリアム・ケントリッジの『Refuse the hour』は日程が合わずに断念したが、それでも力作ぞろいで、欧米芸術界の層の厚さを感じる。アラン・プラテルは、テアトロ・レアルのオーケストラ、歌手に加え、公募で集めた総勢80人ほどのコロスを舞台に乗せ、自身が率いるLes Ballets C de la Bのダンサー10人に対峙させる作品『C(h)oeurs』を上演。主題は、「アラブの春」などを想わせる「『個』対『集団』」あるいは「個と多様性の尊重と称揚」で、それを表現するに最適の方法だったと言える。ヴェルディとワーグナーの合唱曲を交互に、それも生の大音響で聞かせるという直接的な手法も感動的だった。

ボリス・シャルマッツの『enfant』は、レイヤーこそ薄いものの、主題は明確に貫かれていた。開幕冒頭、舞台面に倒れて死んだように動かない子供たちを大人のダンサーたちが起こそうとする。子供たちはなかなか起き上がらないが、やがて目覚めて大人のダンスの群れに加わり、彼らを凌ぐ勢いで奔放に踊り始める。大人たちは対照的に力を失い、気が付くと先の子供たちのように床に倒れ込み、意識を失ったかのように動きを止める……。かつてノン・ダンスの一翼を担ったシャルマッツは、この作品では一転して、激しい動きとスピーディーな全力疾走をダンサーたちに強いる。プラテルの『C(h)oeurs』における「声」と同様、『enfant』における「身体」は強度とエネルギーに充ち満ちていた。

意外な収穫はピエール・アウディが演出した『パルジファル』だった。僕はワーグナーが苦手で、そもそもオペラ通でもない。それでも観に行ったのは、美術がアニッシュ・カプーア、照明がジャン・カルマンと聞いたからだ。期待通り素晴らしく、とりわけ第2幕に圧倒された。何もない舞台上に白いスモークがうっすらと焚かれ、そこに巨大な月が影を伴って下りてくる。と見えたのは実は直径6メートルほどの凹面鏡で、ワイヤーの操作で上下左右に動き、その都度、正円にも卵形にも見える。場面に合わせて照明はブルーに変わり、幻想的にして圧倒的な風景を生じせしめていた。鏡面に映るのは暗い客席と舞台上の役者、そしてオーケストラピット内の白い譜面くらい。だが、そこに観客が見るのは紛れもない現実であり、鏡は「これは虚構である」ということを気付かせる装置として、それこそベケット的、あるいはアゴタ・クリストフ的、アッバス・キアロスタミ的に機能していた。装置も照明もシンプルにしてミニマルだが、舞台に及ぼす効果は絶大だった。

鏡と言えば、『ドクメンタ』で観た数少ない舞台のひとつ、ジェローム・ベルの『Disabled Theatre』は、「優れた芸術作品は鏡である」という命題を証し立てるような作品だった。11人のパフォーマーが舞台に上がり、簡単な自己紹介をしてから、その内の7名が、自らが選んだ曲で3分ほどのソロダンスを踊る。その後、各自コメントを述べてからもう一度ソロで踊る、というだけのものだが、11人全員が学習障害を持っているのだ。障害者とはいえ、チューリッヒに拠点を置くプロの劇団に所属する俳優・女優であり、しかもダンスはベルが振り付けている。だから、舞台経験のないそこらの健常者(例えば筆者)に比べると格段にうまいのだが、とはいえ「流れるように〜」とは行かない。観ている内に、鑑賞者の心には様々な思いや疑問が浮かんでくる。「彼らも我々も同じ人間だ。健常者と身障者は共生していかなければならない(それはPC的な建前ではないか?)」「彼らの熱意に対して拍手をすべきだ(それは偽善ではないか?)」「ヒューマニズムあふれる素晴らしい作品だ(低レベルで不謹慎な見世物ではないか?)」等々。

そう思っていると、パフォーマーたちが心を見透かすようなことを言う。「母は『最初はフリークショーみたいに思えて嫌だった。でも、最後には素晴らしいと思った』と言った」「姉は『ジャングルの中の動物みたいに見えるけど、私は好きよ』って言ってくれた」。
この言葉をどう受け取るかも、人によって異なることだろう。そしておそらく、そうした相異なる反応を生み出すことこそを、ベルは企図し、この作品を作ったのだと思う。個々の鑑賞者が舞台に観るのは、「作者の世界観に基づく純粋な鑑賞対象」ではない。そこにあるのは実は鏡であり、鏡には我々鑑賞者の内面が映し出される。プラテルやシャルマッツのように、この作品の主題も「個と多様性の尊重と称揚」だ。その多様性は観客の数だけ存在しているが、それをさらけ出し、気付かせるのは誰にでもできる業ではない。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。