
アート作品においても演劇性・物語性が際立つアーティストのやなぎみわが、演劇へ急速に、そして本格的に傾斜し始めている。

初の劇場上演作品『1924海戦』(11/3-6。神奈川芸術劇場大スタジオ)は、7月に京都で上演された『1924 Tokyo-Berlin』に続く『1924三部作』の第2部。関東大震災の翌年に築地小劇場を開設した、当時26歳の土方与志を主人公としている。劇中で再現される『海戦』は、ドイツ表現主義の戯曲家ラインハルト・ゲーリングの手になる芝居で、築地のこけら落とし作品として土方の演出で日本初演された。その50年後に、築地の創設メンバー千田是也が演出・上演したほかは、数えるほどしか舞台に載せられていない。
大スタジオに入った観客は「開幕直前の築地の舞台」という設定の舞台上を歩いて客席に誘導される。劇的世界への導入法として特に目新しくはない趣向だが、先頭に立つのがエレベーターガールの衣裳を身に纏った「案内嬢」というのがやなぎらしい。「エレベーターガール」は、言うまでもなくアーティストとしてのやなぎの出世作。案内嬢の中では、前作同様、終幕時に講談師の声色を披露する山本麻貴の演技が頭抜けていた。

物語の背景は冒頭で、そのエレベーターガールによって示される。関東大震災で倒壊した浅草凌雲閣(通称「十二階」)のエレベーターに土方(金替康博)と案内嬢が乗っている。2階は歌舞伎、4階は商業主義演劇のフロア。自然主義やフランス古典演劇などの階を経て、8階ドイツ表現派フロアに達する。震災でそれより上はなくなっているが、土方は最上階ロシア・アヴァンギャルドの階まで行けと命じる。「さらに上はあるのでしょうか」との問いに、案内嬢は「お客様がお望みならば」と答え、エレベーターは昇り続ける。近代化と国民国家化を支える進歩史観や、近代人の上昇志向を連想させる演出だ。
舞台美術の基調をなす色は黒と赤。鉄、そして火と血を想わせるこの2色は、もちろん革命を象徴する。時代はロシア革命直後。築地の設立に莫大な額の私財を投じた土方は爵位を持ち、「赤い伯爵」と呼ばれていた。『海戦』は反戦劇であり、劇中劇は戦艦の砲室で繰り広げられる。作者は原作を日露戦争における日本海海戦に重ね合わせ、記念艦としていまも残る戦艦三笠を横須賀に訪ねて砲塔・砲室をデザインしたという。

築地の理論的支柱であった小山内薫ではなく、若き華族であった土方を主人公に据えたのは、やなぎの貴種流離譚好みゆえだろうか。上演の1月ほど前に本人に聞いてみたところ、むしろ、震災が起こった1923年にドイツに1年間留学し、帰国途中にモスクワで観たメイエルホリドの芝居によって、土方の人生が劇的に変わったというエピソードに惹かれたとのことだった。小山内もモスクワでメイエルホリド作品を観劇し、本人に会見している。だがそれは土方が旅した数年後のことで、ソ連が全体主義化を進めるとともに、構成主義の巨匠は往時の勢いを失いつつあった。小山内は「少なくとも三年前にモスコオへ行ったら」と失望を隠さなかったという(曽田秀彦『小山内薫と二十世紀演劇』)。
夢に生き、夢に死んだロマンチストとして描かれる土方に対して、小山内(関輝雄)は理想と現実の両極を行き来する人物として戯画化されている。芸術至上主義を唱える一方、女のことで土方にカネを無心する。当時主流のリアリズム演劇を批判する演説をぶつかと思えば、iPadを使ってツイッターで集客を図ろうともする(iPadとツイッターは、脚本と演出助手を担当したあごうさとしの発案だとのことだが、1920年代は世界的にラジオなど新しいメディアの時代でもあった)。「芸術と政治」、あるいは「表現と興行」という、いつの時代でも相矛盾する主題を体現しているのが小山内だ。

その小山内が死の直前に土方と交わす会話の場面こそ、やなぎが最も描きたかったものだろう。「来年の築地小劇場の演目についてだけど、君、プロレタリア作家を取り上げようっていってたね」と小山内は土方に語りかける。そして遺言とも呼ぶべき言葉を残す。「私は、反対はせんよ。作劇上すぐれているものならば。だが築地は芸術のための劇場です」。土方が書いた「灰色の築地小劇場」(『演出者の道』所収)によって、この挿話は広く世に知られることになった。だが小山内死後の土方は、社会主義リアリズム演劇を選択し、生涯その活動に身を捧げることとなる。
「芸術か政治か」という問いはロシア・アヴァンギャルド以来、小山内や土方のみならず、やなぎを含む多くの表現者に常に突きつけられる問いである。ちゃらちゃらしたこの時代に、正面切ってこの主題を取り上げた作者に敬意を表したい。だがそれよりも、ゲーリングやメイエルホリドに代表される表現主義や構成主義を作劇の中心に持ってきたことに注目すべきかもしれない。演劇史は劇的言語と日常的言語のせめぎ合いの歴史だが、この作品が、(1920年代における築地のように)今日この国で盛んな日常を描くリアリズム演劇に対する反発あるいは挑発から構想されたのだとしたら面白い。本人に聞いたら肯定も否定もせずに笑っていたが「日常性にあまり興味はない。過剰なものが好きだ」とは答えてくれた。

興味深いのは案内嬢の位置づけである。土方に「よっちゃん。もうお家に戻りなさい」と呼びかける場面が何度かあり、これは母親、すなわち前近代の暗喩だろう。エレベーターガールは1920年代に現れた。その意味では近代消費社会の象徴的アイコンでもあるのだろう。ナレーターあるいは観察者としての面もある。メディア社会である現代を表すものだろうか。ただ、やなぎ作品にしてはあまり前面に出てこないのがいささか物足りない。
案内嬢たちは三部作を通じて重要な役を担わされるのだという。3作を俯瞰するとどのような像が見えてくるのか。第3部の『1924 人間機械』(仮)が楽しみである。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。