COLUMN

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Out of Tokyo

229:震災と表現者たち IV
小崎哲哉
Date: July 01, 2011

ヴェネツィア・ビエンナーレに行って困ったのは、直接には関係ないものから今回の震災を連想してしまうことだった。例えばアルセナーレで行われたジェラティンのパフォーマンス。ご当地の特産品に因んでガラス瓶を溶かし続けるというものだが、その際に彼らが着ている耐熱服が放射線防護服にしか見えない。炉は格納容器に見える。原子炉も炉だから当たり前だが、かくしてパフォーマンスは原発の復旧作業を思い起こさせるものとなる。

 

Out of Tokyo 229 | REALTOKYO

トーマス・ヒルシュホルンの「Crystal of Resistance(抵抗の結晶)」も同様だった。巨大なスイス館の内部に、膨大な量の家具、食器、自転車、マネキン、テレビ、携帯電話、瓶や缶、割れたガラスなどがぶちまけられている。ほかならぬ東日本大震災などのニュースを報じる雑誌や、リビアなど各国における戦争や弾圧の模様を写した写真もある。綿棒で作られたヴァギナ・デンタータ(歯の生えた膣)もある。そのほとんどが、ガムテープやアルミフォイルやビニールで乱雑に覆われ、ところどころに作品名にある結晶を象ったオブジェが突出している。これらすべてが、津波に襲われた被災地の瓦礫に思えてしまう。

 

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ヒルシュホルンのこのスタイルは、今回のヴェネツィアで初めて採用されたものではない。僕の知る限り、2004年にパリのパレ・ド・トーキョーで開かれた『24h Foucault(24時間フーコー)』でも同じような制作方法を採っている。森美術館の『フレンチ・ウィンドウ』展に出品中の「スピノザ・カー」(2009年)も小品とはいえ同様だ。2010年の光州ビエンナーレでの展示ではほぼ完成の域に達していたから、満を持しての主題であり手法であるのだろう。ナチスが扇動してユダヤ人を襲撃させた「水晶の夜(クリスタルナハト)」も連想されるが、全体を「結晶」というコンセプトで貫いたところが秀逸だ。だがそれにもまして、集められ、展示された大量生産・消費製品の圧倒的な量に説得力がある。

 

話を震災と原発事故に戻すと、今回の事態には既視感があると述べる人が多い。実際、核戦争や大災害勃発後の「破滅後の世界」を描いた映画、演劇、アニメ、マンガ、小説などは枚挙にいとまがなく、夥しい「終末(と終末後)のイメージ」が我々の記憶の内に集積している。だが、そうしたイメージの源泉は、単に冷戦期の核兵器開発競争のみに求めればよいというものではない。もちろん、今回の原発災害が過去の冷戦構造と無関係に(例えば「想定外の」地震と津波によって)生じた単発の事故であるわけでもない。

 

「速度の哲学者」ポール・ヴィリリオは1980年代後半以降、一貫して「テクノロジーは事故を『発明』する」と主張し続けている。曰く「難破とは船舶の『未来派的』発明品だし、墜落は超音速機のそれだ。チェルノブイリが原子力発電所のそれであるのも全く同様だ」(『アクシデント 事故と発明』小林正巳訳)。ヴィリリオによればテクノロジーの進歩の追求は速度の追求と同義である。その場合の速度とは、6/9に村上春樹が、カタルーニャ国際賞授賞式のスピーチで述べた「効率」という言葉にほぼ等しいだろう。我々は速度の、効率の時代に生きている。速度と効率は必然的に事故を発明する。つまり、我々の時代において事故は不可避である。

 

問題は、ここでいう「事故」が局地にとどまらないことだ。再びヴィリリオ曰く「今日、新しいテクノロジーは、ある種のタイプの偶発事=事故(アクシダン)をもたらしています。それも、もはやタイタニック号の沈没や列車の脱線のように局地的であったり正確に位置の確定される事故ではなく、全域的な偶発事=事故、世界の全体性に直接関係するような事故なのです」(『電脳世界』本間邦雄訳)。ネットによって可能となったリアルタイムコミュニケーションと、その技術によって成立した金融工学、さらには、それらによって引き起こされる(リーマン・ショックのような)金融危機などが念頭に置かれている。鳥インフルエンザなどの伝染病が、あっと言う間に世界中に広がることもそうだろう。

 

この文明史的な観点に則して言えば、ヒルシュホルンの作品は今日的事態を実に正確に表現している。21世紀初頭に生きる我々の漠たる、あるいは露わにされた不安が、まさに我々が置かれている状況を構成する日用品によって視覚的・触覚的に再現されているのだ。では、我々が置かれている状況とは何かと言えば、それは「グローバリゼーション」と呼ばれる事態にほかならない。冷戦期以降、世界は速度と効率を求め、グローバリゼーションに向けてまっしぐらに進んでいった。その結果生まれたのが、資本・利潤の集中と経済格差、資源戦争と内乱・紛争・弾圧、環境破壊と文化的多様性の減少である。今回の原発事故も、この流れの論理的帰結として、つまり起こるべくして起こった事故として捉えられなければならない。みたびヴィリリオを引こう。「グローバリゼーションとは、活動領域の地球物理学的限界に最近達してしまった政治経済学の全面的な事故のことなのだ」(『アクシデント 事故と発明』)

 

優れた表現者は「炭坑のカナリア」(カート・ヴォネガット)のように世界の危機を察知して告げる。ヴェネツィアでも、ヒルシュホルンだけではなく多くのアーティストが、グローバリゼーションに関連する問題に材を取った作品を発表していた。直接に原発を主題にしていなくても、そうした諸問題は文明史的に原発事故を予言していると言えると思う。優れた表現者にとって、いまや、いやすでに何年も前から、「すべての道はフクシマに通」じていたのではないだろうか。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。