
3月11日午後2時46分。僕は『クワイエット・アテンションズ』展開催中の水戸芸術館で地震に遭った。木村友紀+ユタ・クータ+荒川医による金属パイプを用いた作品を観ているときにパイプがびりびりと震え始め、「あれ? 動くの?」と馬鹿げた疑問を抱いた瞬間にぐらぐらっと来た。外に飛び出すと、2階テラスの大きな窓ガラスは完全に砕け散っている。磯崎新が設計した特徴的な形のタワーがゆらゆら揺れている。2分か3分くらいだろうか、数人の職員と一緒にテラスに座り込み、横揺れがやや収まった頃合いに中庭に降りた。1階エントランスホールを覗き込むと、階上に設置されたパイプオルガンのパイプが数本、フロアに崩落しているのが見えた。

電車もバスも完全に止まっていたため、避難所となった水戸芸のレセプションホールで一夜を過ごした。水戸市は震度6弱で、死者も出たけれど、宮城、岩手、福島の惨状に比べれば被害は軽微と言っていい。それでも、当日は電気、ガス、水道はすべて止まった。路面はひび割れたり、段差が生じたりし、さらには那珂川などを渡る多くの橋が通行止めとなり、信号機の停電もあって、道路は渋滞を極めた。日が沈むと街は真っ暗になり、頭上には満天の星空が広がった。

翌日になっても交通は復旧しない。常磐線開通というテロップをテレビで見て水戸駅まで行ったが、実は取手までしか動いていないと知った。列車が来ている駅までヒッチハイクで行くことにし、幸運にも親切なご夫婦の車に乗せていただくことができて、大渋滞の国道を南西に向かった。車中で、NHKが福島第1原発1号炉の爆発を報じるのを聞いた。それから、電車を乗り継いで東京に戻ったが、原発に関するその後の展開はご存じの通りである。

言いたいことは山ほどあるが、ひとつだけ引用する。地震列島に原発を建設する愚行について、つとに警鐘を鳴らしていた広瀬隆の『原子炉時限爆弾』(2010年8月刊)より。今回起こったことの描写ではない。文中にあるように、9ヶ月前に生じた事故の記述である。
「この最終原稿を書いている最中の二〇一〇年六月一七日に、東京電力の福島第一原子力発電所二号機で、電源喪失事故が起こり、あわやメルトダウンに突入かという重大事故が発生したのだ。(中略)そもそもは、外部から発電所に送る電気系統が四つとも切れてしまったことが原因であった。勿論、発電機も原子炉も緊急停止したが、原子炉内部の沸騰が激しく続いて、内部の水がみるみる減ってゆき、ぎりぎりで炉心溶融を免れたのだ。(中略)事故当日には地震が起こっていないのに、このような重大事故が起こったのだから、大地震がくればどうなるか」

実はアートイットを離れた後に、原発と太陽光発電についての本を作ろうかと考え始めていた。この国ではかつて反原発運動が盛り上がったこともあったのに、いつの間にか原発が受け入れられている。CO2を排出しないというだけの理由で「クリーンエネルギー」と形容するのもどうかと思うが、文部科学省と経済産業省資源エネルギー庁は小学生向きに『わくわく原子力ランド』という副読本まで作っている。悪い冗談としか思えない、というのが動機のひとつだ。
もうひとつは、ある企業広報誌の取材で、慶應義塾大学の清水浩教授に会ったことだ。時速370kmで走る電気自動車「エリーカ」の開発者にして、『温暖化防止のために 一科学者からアル・ゴア氏への提言』などの著書でも知られる環境問題研究者である。エネルギー問題についての教授の主張は非常にシンプルかつ説得的だ。1:自動車と製鉄及び電気の利用で、CO2の95%が発生する。2:CO2を削減するためには化石燃料に頼り続けるわけにはいかない。3:代替エネルギーは、世界中の誰もが公平に、長期的に、安全に、そして新たな環境問題を発生させずに使えるものでなければならない。4:上記の前提を満たし、最大効果量と限界コスト面で期待できる抜本的技術は太陽光発電しかない。
教授によれば、地表(陸地)の1・5%に太陽電池を設置すると、変換効率10%として計算しても、世界中の70億人が、現代のアメリカ人と同レベルの裕福な生活を送ることができるという。貧富の差が解消されれば、戦争や紛争は激減するだろう。水や食料を含む資源問題もほぼ解決できるだろう。実現は容易ではないだろうが、人類が生き延びるためには必須の、そして取り組む甲斐のある課題ではないだろうか。

原発推進派の典型的な論理は、例えば原子力安全研究協会理事長(当時)の佐藤一男という人が書いた『改訂 原子力安全の論理』(2006年2月刊)に見ることができる。曰く「エネルギー資源に甚だ乏しいわが国にとっては、原子力の平和利用は必要ではあるが、それには安全確保が大前提であるということには、同意する人が多いだろう。そうすると、現存している、あるいは建設が予定されている原子力施設が、果たしてこの大前提を満足する程度に安全と考えることができるかどうかを、単に一人一人がどう思うかだけでなく、これを総合し集約して、国家あるいは社会として判断しなければならないことになる」
一読してもっともなように思える。特に「安全確保が大前提」という点は、「多い」どころか誰もが同意するだろう。だが、この理路は根本的に間違っている。「原子力の平和利用は必要」という主張が、まったく疑問に付されずに前提とされているからだ。本来ならば、「原子力の平和利用」を「代替エネルギーの利用」と変えて、以下のように書かれるべきではないか。「エネルギー資源に甚だ乏しいわが国にとっては、代替エネルギーの利用は必要ではあるが、それには安全確保が大前提であるということには、同意する人が多いだろう」


「代替エネルギー」とは、言うまでもなく石油に代わるべきエネルギーの謂。原子力に限らず、水力、風力、地熱、バイオマスなど様々なものがある。太陽光はその中でも期待される手段のひとつで、上述した清水教授の主張が正しいとすれば、最も有力かつ現実性の高い手段ということになる。太陽エネルギーはほぼ無限にある。「安全確保」に関しては何の問題もない。原発への技術的、経済的、人的投資を止め、太陽光発電の研究開発を行うのが論理的に唯一最善の手段ではないか。そのような趣旨の本を作ろうと思っていたのだ。
本の刊行は、いまとなっては何の意味もなくなってしまった。だが、復興を目指す日本が、その目的・手段として太陽光発電の本格実現化を目指すのは極めて有意義だと思う。今回の惨事も、世界に向けて原発依存社会の脆さ・危うさを明らかにした教訓的・啓蒙的事故と思えば、いくぶんかは救われるような気がする。犠牲があまりにも多すぎたことは悔やんでも悔やみきれないが。
日本は第2次大戦後の十数年間で、未曾有の経済大国となった。言うなれば、脱軍国主義を果たすことによって、平和裡に経済成長を成し遂げたのだ。だとすれば、脱原発を果たすことによって、太陽光発電立国を成し遂げることも不可能ではないはずだ。放射性物質が流出するさなかに「この事故を解決できれば日本の技術力の高さが証明され、アジア諸国などに日本の原発を売ることができる」という妄言を口走った学者とキャスターがいたが、そんなことはあり得ないしあってはならない。日本の(そして世界の)未来は、太陽光発電を中心とするオルタナティブなエネルギー開発にこそかかっている。
※追記:北海道新聞によれば、「日本経団連の米倉弘昌会長は16日、東京都内で記者団に対し、福島第1原発の事故について「千年に1度の津波に耐えているのは素晴らしいこと。原子力行政はもっと胸を張るべきだ」と述べ、国と東京電力を擁護した」とのこと。これもとんでもない発言だと思う。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。