
(承前)
この秋は、「演劇」と「アート」の違いを考えさせる作品が多かった。

マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(10/29@京都芸術センター)。元小学校の講堂という会場で、10数ヶ所に分かれてパフォーマンスが同時進行する。ハプチョンは戦前・戦中に広島へ移住した住民が多い韓国の都市であり、被爆体験を抱える2都市をテーマに、戦争体験のない役者が、リサーチを元にしたひとり芝居を行うという趣向だ。作・演出の松田正隆は「好きなように鑑賞できる博物館・美術館のような展示形式」と言い、副題も「二つの都市をめぐる展覧会」となっているが、現代の博物館・美術館や展覧会は運営者やキュレーターによって動線が厳密に設計されているから、その意味ではこの作品は「展覧会」とは似て非なるものだと思う。当たり前の話だが、実はタイムテーブルがきちんと作られていて、時間的構成は「演劇」そのものだ。

アリカ『house=woman 家=女』(11/3@A to Z)。キャバクラやホストクラブがひしめく歌舞伎町にあるとは思えないような、築50年を越えるという古いビルの地下が会場。毎回のことだが、「ピタゴラスイッチ」のような(©前田愛実さん)仕掛けに満ちた美術と、緊張感あふれるライブ演奏、安藤朋子のしなやかにして予断を許さぬ演技が、ときに会場の外から漏れ聞こえてくるサイレン音と混ざり合い、優れた演劇のみが作りうる「異界」とも呼ぶべき非現実的な時空間を成立させていた。『アンティゴネー』に材を取っているというが、フーコーのいう「生権力」への抵抗がアリカの一貫した主題だろう。『フェスティバル/トーキョー(F/T)』は、なぜこの作品をラインナップに加えなかったのか。

と思ったのは、ひとつには飴屋法水の『わたしのすがた』(11/4@にしすがも創造舎ほか)が、F/Tの枠内でなくてもよかったのではないかと感じたからでもある。この作品は(『新潮』の新連載で佐々木敦氏が述べるのとは反対に)紛れもなくアート作品であり、それ以外の何ものでもないからだ。鑑賞者はひとりずつ地図を渡され、にしすがも創造舎の庭にある、もの派の関根伸夫へのオマージュとしか思えない作品を筆頭に、計4ヶ所の「会場」を歩いて回る。残り3ヶ所はいわゆる廃墟であり、そこで我々は、記憶や歴史や生と死、そして信仰と物語に思いを馳せることになる。最後の場所は元診療所で、そこに何があったかはあえて書かないが、非日常的にして根源的な恐怖が心を揺さぶる。クリスチャン・ボルタンスキーやレベッカ・ホーンの系譜に連なるインスタレーション。

ジゼル・ヴィエンヌ『こうしてお前は消え去る』(11/7@京都芸術劇場春秋座)。中谷芙二子の厚い霧が舞台を覆い、高谷史郎の精密な映像が投影され、スティーヴン・オマリー、ピーター・レーバーグの音響・音楽が耳をつんざく。今夏アビニョンでの初演も観ていたが、霧はその折よりも濃く、音は大きく、全体に迫力が増していた。関係者の言うとおり、この日の公演がベストだったに違いない。肉体(の消滅と不滅)、エロス、暴力などをめぐるモノローグは退屈。物語はなくてもよかったのでは?(とは失礼かな。^^;)。高谷史郎は日本初演の『明るい部屋』(11/27@びわ湖ホール、大津)も観たが、モダンの純粋性とポストモダンの拡張性を併せ持った、意欲的な仕事を展開していると思う。

クリストフ・マルターラー『巨大なるブッツバッハ村―ある永遠のコロニー』(11/19@東京芸術劇場中ホール)。十数名の役者の溜息から始まる。会話は基本的にモノローグで、ダイアローグは進展しない。舞台中央奥にあるガラス窓のスタジオはパノプティコンだろうか。そんなことを考えてしまうのは、車庫の中のネーリングスタジオにせよ、「ステイン・アライブ」が響き渡るディスコにせよ、ロマのトレーラーや、強制収容所や、そのガス室や、牢獄や、精神病院の病室などを想起させる設えだからだ。銀行家が登場し、黄色いポストイットで物件の差し押さえを行うシーンは、その色からユダヤ人狩りを思わせる。金融資本主義批判と共に、「生権力」批判という、アリカ作品と同じ主題が明瞭に見えた。

ほかに、tpt『おそるべき親たち』(11/2@東京芸術劇場小ホール)、地点『―ところでアルトーさん、』(11/4@京都芸術センター)、快快『Y時のはなし』(11/5@アトリエ劇研、京都)、ピチェ・クランチェン『About Khon』(11/12@京都芸術劇場studio21)、鉄割アルバトロスケット『鉄割のアルバトロスが 京都編』(11/14@アートコンプレックス1928、京都)、渡邊守章/京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター マルグリット・デュラス 作 『アガタ』―ダンスの臨界/語りの臨界―(11/21@京都芸術劇場春秋座)、ロドリゴ・ガルシア『ヴァーサス』(11/24@にしすがも創造舎)、アトリエ・ダンカンプロデュース『アジアン スイーツ』(11/25@ザ・ スズナリ)神村恵カンパニー『飛び地』(11/26@シアターグリーンBox in Box)、ウェン・ホイ(文慧)『メモリー』(11/27@にしすがも創造舎)、高山明『完全避難マニュアル 東京版』(11/27@山手線各駅周辺。僕が観たのは上野、巣鴨、池袋、大塚)、やなぎみわ『カフェ・ロッテンマイヤー』(11/27@F/Tステーション)など。
貧困と暴力をめぐる『ヴァーサス』の激しさ、チェルフィッチュと正反対の方向から言語(台詞)と身体(所作)の関係を探ろうとする『飛び地』の意欲、都市の中に確固として存在する異物を気づかせる(いわゆる癒し系の「気づき」とはまったく異なる)『完全避難マニュアル 東京版』の現代性に心打たれた。やなぎみわは、「老婆メイドカフェ」という設定も見事だが、そもそも演劇に向いている人だと思う。これまでのアート作品も、ほぼすべてが「演劇的」と言いうるものではなかったか。「アートとデザイン」「演劇とダンス」の違いに加え、「アートと演劇」の違いが気になり始めたこの秋だった。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。