COLUMN

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Out of Tokyo

223:秋の舞台 I
小崎哲哉
Date: November 24, 2010

アート、デザイン、映画、音楽など、文化芸術のハイシーズン。分けても演劇とダンスは、『あいちトリエンナーレ』『KYOTO EXPERIMENT』『フェスティバル/トーキョー』が相次いで開催され、名古屋、京都、東京その他を行ったり来たりする忙しい季節となっている。当然ながら他のカルチャーイベントと重なって、涙を呑んで見送った演目も多いけれど、印象に残ったいくつかの舞台について書いてみたい。

 

アントニア・ベアー『Over The Shoulder』 | REALTOKYO
アントニア・ベアー『Over The Shoulder』 (C) Marc Domage

まずはアントニア・ベアーの『Over The Shoulder』(9/26@愛知芸術文化センター ギャラリーG)。ほぼ正方形の会場中央に置かれた小型メトロノームを中心に、よく似た三つ揃いのスーツを着た2人のパフォーマーが点対称的な動きを見せる。言語化された台詞は一切なく、獣同志の縄張り争いのような、シングルズバーか発展場でのナンパのような、誇張された身体コミュニケーション。アーティストユニットのギルバート&ジョージを連想したり、点対称ということから、4人のパフォーマーが1点を中心に反復的な動作を続けるサミュエル・ベケットの『Quad』を想い出したりと、24分の小品ながらなかなか楽しめた。2人は男性とも女性とも見えるような容姿で、当然ジェンダーも主要な主題なんだろうが、ビジュアル的には好き嫌いがはっきり分かれるかもしれない。

 

アントニア・ベアー『Laugh』 (C) Julie Pagnier | REALTOKYO
アントニア・ベアー『Laugh』 (C) Marc Domage

同じくアントニア・ベアーの『Laugh』(10/2@愛知芸術文化センター/ギャラリーG)はベアーのソロ。「誕生日に友人たちがプレゼントしてくれた」という十数編の「笑いの楽譜」をもとに、信じられないほど多様な「笑い」を演じ分ける。身振りと声をできうる限り細かく身体語彙化し、厳密な方法論=文法に則って作劇するというアイディアだろうが、それだけであれば、演劇、ダンス、お笑いなど各分野の優秀な表現者と変わらない。ベアーが他と一線を画しているのは、「西洋の文化における笑い」という文化人類学的テーマを、「採集(観察)→記譜(記録)→再現(発表)」という文化人類学的手法を取って追究している点だ、と見るのは穿った見方に過ぎるだろうか。

 

木ノ下歌舞伎『俊寛』 photo by Takezaki Hiroto | REALTOKYO
木ノ下歌舞伎『俊寛』 photo by Takezaki Hiroto

木ノ下歌舞伎『俊寛』(10/14@アトリエ劇研、京都)。京都を拠点に、歌舞伎を新しく解釈して演じる劇団は、2006年から活動しているらしいが、僕は初めて観た。観る前は往年の花組芝居のようなものを想像していたがまったく違っていて、狂言の主題を抽出してより普遍的な形で演じ直すという、神話分析のようなことを行っている。この作品においては、原作(近松門左衛門)の世界を一応は下敷きにしながら、「俊寛の周りにいる女たち」に焦点が絞られていた。そのせいか、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』のような、すなわち不在の男性主人公をめぐる女性たちのドラマのような印象を受けた。もっとも、演出手法は毎回異なるという。1枚の布で孤島を取り巻く大海の波浪を表現する美術に感心。

 

dracom祭典2010『事件母(JIKEN-BO)』 | REALTOKYO
dracom祭典2010『事件母(JIKEN-BO)』

dracom『事件母(JIKEN-BO)』(10/15@京都芸術センター)。大阪を拠点とする劇団の新作。2007年に『もれうた』で京都芸術センター舞台芸術賞を受賞している。僕はそのとき審査員のひとりだったが、録音した台詞が役者の演技とシンクロしたりずれたり……という手法を駆使した、きわめて刺激的な舞台だった。今回はアイスキュロスの『オレステイア』と、3年前に会津若松で実際に起こった事件をもとにした「母親殺し」を主題とした作品だという。時系列は混沌としていて、物語の筋はおよそ見えない。型にはめたような役者の演技は滑稽と言えるほど極端ではなく、ギャグも空回りしている。だが、他の役者の日本語の台詞を母親役とおぼしき女性が英語に訳して語る、それも前作と同じくシンクロさせたりずらしたりしながら、という手法が無類に面白い。眼前に繰り広げられている光景は作家が見た夢の再現なのか、劇的世界における母親の、あるいは息子の脳内に生じた幻想なのか? そんなことがどうでもよくなってしまうくらい、論理がシャッフルされた不条理劇だった。

 

Aichi Triennale 2010『Rosas danst Rosas』 photo by Nanbu Tatsuo | REALTOKYO
Aichi Triennale 2010『Rosas danst Rosas』 photo by Nanbu Tatsuo

ローザス『ローザス・ダンス・ローザス Rosas danst Rosas』(10/26@愛知芸術文化センター小ホール)。言わずと知れたローザスのデビュー作。1983年初演というから27年も前の作品で、日本でも94年に上演されたが、僕はそれを見逃している。この初日公演では、アクシデントがいくつか重なって、ダンサーたちの名古屋到着が当日朝になってしまったそうだが、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルは、年齢からすると考えられないほどの切れのいい見事なダンスを見せた。ミニマルな音楽と精緻な振付が相まって、観る者に覚醒剤のような高揚感をもたらす。「ダンスとは、踊ることとは何か」を脳味噌にも、(僕は踊りませんが)肉体にも考えさせる傑作だ。もっと早く観ておけばよかった。

 

Aichi Triennale 2010『3Abschied』photo by Nanbu Tatsuo | REALTOKYO
Aichi Triennale 2010『3Abschied』photo by Nanbu Tatsuo

アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル+ジェローム・ベル+アンサンブル・イクトゥス『3Abschiedドライアップシート(3つの別れ)』(10/31@愛知芸術文化センター大ホール)。こちらは打って変わって、僕には面白くは感じられなかった。「マーラーの『大地の歌』の最終楽章『告別』を踊りたい。手伝ってほしい」とケースマイケルが話を持ちかけたとき、指揮者にしてピアニストのダニエル・バレンボイムは即座に「世の中には決して振付をしてはならない音楽がある」と断ったそうだ。このエピソードを含め、ケースマイケルとベルが創作の過程を解説し、音楽家(イクトゥス)とダンサー(ケースマイケル)が3つのバージョンを演じ分ける「告別」。しかし、最後にケースマイケルが歌う(!)ことも含め、やはりバレンボイムは正しかったと言うべきだろう。音楽家たちが立ち去った後に、舞台に残った椅子を片付けるシーンだけは、名作『カフェ・ミュラー』を想い起こさせてピナ・バウシュへのオマージュ(告別?)を感じさせたものの、消化不良という印象は拭い去りがたかった。果たして27年後にはこなれた作品に熟成しているだろうか。

 

この項続く

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。