COLUMN

outoftokyo
outoftokyo

Out of Tokyo

222:国際展の転機
小崎哲哉
Date: October 01, 2010

瀬戸内、愛知に続いて、韓国3つの国際展を駆け足で回ってきた。観終わって浮かんできた言葉は「転機」である。光州はやや別としても、ソウルと釜山は、明らかにこれまでと違う方向に進もうとしている。

 

Cho Duck Hyun: Herstory Museum Project (detail) | REALTOKYO
Cho Duck Hyun: Herstory Museum Project (detail)

まずは9/7開幕(11/17まで)の第6回メディア・シティ・ソウル。なんと、いわゆるインタラクティブアートがほとんどない。例外と言えるのはチョー・ドッキョン(曺徳鉉)が梨花女子高のホールで発表した感動的なインスタレーション「Herstory Museum」くらいで、それとても、展示空間内の椅子に腰掛けると、男性主導社会に生きてきた女性たちの声がピンスポット的に聞こえてくるというシンプルな仕掛けに過ぎない。これ以外は、シルパ・グプタ、西京人、泉太郎ら一部を除いて、ことごとくが写真か映像作品だ。

 

ディレクターのキム・ソンジョンは「アートをひとつの『媒体(メディウム)』に——換言すればひとつの単なる『素材(マテリアル)』に——制限してしまう『メディアアート』という用語の限界が、『メディア』という語のもっと普遍的な定義を探ることを我々に強いていると気づいた」と述べている(図録序文)。そこでキムは、正式名称の「ソウル国際メディア・アート・ビエンナーレ」を廃し、通称に過ぎなかった「メディア・シティ・ソウル」を昇格させた。そして「メディアアート自体よりも、メディアの様々な様相や、それらが我々の生活にもたらす変化に焦点を当て」たという(同)。つまり今回は(今回以降も?)、メディアアートではなく「メディア」「アート」「生活」の関係を見せる展覧会ということになる。キムによれば、これは初回(2000年)の趣旨に戻ったということだ。

 

Suh Do-Ho: Who Am We?: Uni-Face (detail) | REALTOKYO
Suh Do-Ho: Who Am We?: Uni-Face (detail)

前回は、アニッシュ・カプーア、オラファー・エリアソンら、ファインアート界の大物作家の出展が目立った。今回も、前述のチョーのほか、スゥ・ドーホー、アピチャッポン・ウィーラセタクン、ダグラス・ゴードンらの作品が目を惹く。カプーアは珍しくも映像、エリアソンはいつものように光を用いたインスタレーション、スゥも(北野謙作品に酷似した)映像、ウィーラセタクンとゴードンも映像インスタレーションだったから、ファインアート界からメディアアート寄りのものを選んだと言えなくもない。だがそれよりも、両者の線引きがあり得なくなった、あるいは狭義のメディアアートに見るべきものがなくなった、というほうが実情に近いのではないか。メディアアートというジャンルが消滅しかかっているのかもしれない。

 

第8回光州ビエンナーレは前回に続き、非常にレベルが高い(9/3-11/7)。「10000 Lives(万人譜)」というテーマのもと、明快な企画意図、適切な作家・作品選択、計算の行き届いた展示で好評を博している。134組もの参加作家のいちいちについて記すことはできないが、「人々を映像に、そして映像を人々に結びつける関係性の広範な探究」(ディレクターのマッシミリアーノ・ジョーニ。図録序文)を標榜する同展の代表的・象徴的な作品として、アルトゥール・ジミェフスキの映像作品「Blindly」を挙げておきたい。

 

ジミェフスキは盲目の志願者を募り、自画像、風景、虫などの絵を描くことを要請する。ある者は先天的に盲目で、ある者は事故などの後天的な原因で盲人となった。盲人たちは絵具の缶を手に取り、撮影者たちに何色かを尋ねる。知らない虫を描く場合には、それがどんなものであるのか言葉で説明させる。ほとんどの者は手に絵具を付け、床に広げた数メートル四方の紙に描いてゆくが、ある女性は手ではなく足を用いる。はだけたスカートの奥に下着が覗くが、もちろん彼女は気がついていない(あるいは気にしていない)。紙の上を歩くと、足の裏に付いた絵具が、描いたばかりの絵の上に足跡を印してしまう……。

 

Unidentified Prisoner, Tuol Sleng Prison, Phnom Penh, Cambodia, 1975-79, photograph, © The Tuol Sleng Museum of Genocide, Cambodia/Doug Niven | REALTOKYO
Unidentified Prisoner, Tuol Sleng Prison, Phnom Penh, Cambodia, 1975-79, photograph, © The Tuol Sleng Museum of Genocide, Cambodia/Doug Niven

見ることと描くことの距離、言語と映像の関係、そして「アートとは何か」を観る者に考えさせる秀作である。1997年のアルル国際写真フェスティバルにも展示された、クメール・ルージュによる大量虐殺の被害者の写真を展示するなど、教科書的な印象を与える光州ビエンナーレは、一方で華やかさに欠ける恨みが残る。だが、この1作を観るためだけにでも訪れる価値があると思う(いずれ他の都市でも上映されるだろうが……)。

 

第7回釜山ビエンナーレ(9/11-11/20)は枠組が大幅に改変された。これまでは「現代美術展」「シー・アート・フェスティバル」「現代彫刻展」の3部門に分けられ、それぞれ別のキュレーターが担当していたが、今回から部門分けを止め、ひとりのディレクターが全体を統括することになったのだ。指名されたのは、前回「現代美術展」にキュレーターのひとりとして携わった東谷隆司。数年前に日本各地を巡回した『ガンダム』展のキュレーターでもある。東谷が掲げたテーマは「Living in Evolution(進化の中に生きる)」。3つのビエンナーレの内、フェスティバルとして最も「進化」を遂げたのは釜山だろう。

 

Yishay Garbasz: Becoming (detail) | REALTOKYO
Yishay Garbasz: Becoming (detail)
Yishay Garbasz: In My Mother's Footsteps (detail) | REALTOKYO
Yishay Garbasz: In My Mother’s Footsteps (detail)

絞り込みに伴い、参加作家数は、前回の189組から72組に激減した(前回「現代美術展」に参加した作家は92組)。結果として、作家ひとり当たりの展示空間面積と作品数が増え、それぞれの作家の多様な側面や、連作の制作意図などが、これまでよりもはるかにわかりやすくなった。詳しくは11/10発売の雑誌『リバティーンズ』第4号に書く予定だが、特にイシャイ・ガルバシュのふたつの作品は、作家の二面性を相互補完的に示していて素晴らしい。また、名和晃平のドットをモチーフとした作品はドローイング、アニメーション、オブジェが連続的に展示されていて、作家の意図・関心が明快に窺える。

 

メディア・シティ・ソウルも、参加作家を前回の69組から46組に減らした。これからは、作家数を絞って「量より質」を目指す国際展が増えるのではないだろうか。作品数が多いばかりのショーケース的展示では、個々の作家の意図を理解することは難しく、結局何も心に残らないからだ。ソウルと釜山に続く者は誰だろうか。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。