
瀬戸内海と名古屋で、今年始まった新しい国際展がそれぞれ開催中だ(『瀬戸内国際芸術祭2010』は7/19から10/31まで。『あいちトリエンナーレ2010』は8/21から同じく10/31まで)。どちらも新しく、そして古い。言い方を変えれば、新たな試みを導入しようと努めつつ、大枠は旧態依然たるままである。それを批判しようというのではない。少しでもいいから将来につながる長所を見出し、記しておきたい。
先に断っておけば、僕は双方ともオープニング前後の2日間を観ただけで、あらゆる展示を観てはいない。「前後」というのは、開幕前日のプレス内覧を含むからだが、いずれにせよ莫大な展示物をすべて観る時間はなかった。瀬戸内は8つの会場の内、5つの島と高松市内の一部のみ。あいちは4つのメイン会場の内、3つのみ。後者は舞台芸術も多く、あらかた観るつもりではいるけれど、もちろんまだ観ていないもののほうが多い。






旧態依然たる大枠についてまず記そう。総合ディレクターに北川フラムを迎えたのだから当然だが、瀬戸内は越後妻有トリエンナーレ(大地の芸術祭)と瓜ふたつである。「地域再生」という目的からボランティア動員のやり方まで、過疎の農村に適用された方針と方法が、やはり過疎の島々に導入されている。違いと言えば瀬戸内のほうが「アート度」が高く思えることだ。これは、商業アートシーンと距離を置き、「芸術よりも祭のほうが僕にとっては重要です」(『ART iT』によるインタビュー)と明言する北川と、長い年月をかけてコレクションを築き上げ、数十億という私財を投じて「アートの島々」を作ろうとする総合プロデューサー、福武總一郎の気質の差によるものだろう。企業経営者でもある福武は、理念と実践を秤にかけ、自分の理念と異なるとはいえ、巨大芸術祭運営のノウハウを持つ北川の実践能力を、ビジネスマンとして「買った」のだと思う。福武が支援しているとはいえ、越後妻有は北川のものであり、その逆に瀬戸内は福武のものなのだ。
結果として何が残ったか。ひとつは実力派アーティストを中心とした、20世紀型の上質な展示である。もうひとつは、意欲はあるが革新的とは言いがたい若手作家の、やはり20世紀型の貧弱な展示である。前者はそれでかまわない。この国に上質な展示は圧倒的に不足しているし、それを補うことこそが福武が目指していたことのひとつであるだろうからだ。後者は大いに問題である。同じ予算で、もっと画期的なことはいくらでもできるはずだから、実験的な展示を若い作家に行わせ、次代につなぐことを次回以降は考えるべきだ。ちなみに、「福武ハウス」における杉本博司の展示は噴飯物だった。「しゃべるシャベル」「世界の機嫌」「世界のせんたく肢」……(笑)。3分くらいで思いつき、小一時間ほどで作ったに違いない「なんちゃってレディメイドアート」は、いまや骨董収集と建築設計三昧だといわれる、バブルを売り抜けた巨匠のみに許される道楽だろう。
宮永愛子とハンス・オプ・デ・ビークが素晴らしかったとはいえ(前者は隣の映像作品の音に邪魔されていたが)、あいちにも実験的な要素はほとんどなかった。4つの主会場の内、2ヶ所が美術館で2ヶ所が商店街と倉庫という構成からして、世界中に数多あるビエンナーレ、トリエンナーレと変わるところがない。その中にあって、若手による企画展を公募したのは数少ない救いだった。とはいえ斬新な展示が行われているわけではなく、瀬戸内と同様にどれもが悲しいくらい貧弱である。ここでもやはり、何か根本的に異なるものが求められている。
あいちで注目されるのは、やはり舞台芸術やインスタレーション/パフォーマンスだろう。開幕時に上演された平田オリザの「ロボット演劇」とラ・リボットの『Laughing Hole』は、少なくとも僕には面白いものではなかった。今後行われる、梅田宏明、池田亮司、アントニア・ベアーらには期待している。ただしここで重要なのは、舞台芸術作家と視覚・造形芸術作家の、また、双方のファンの交流を主催者が意図的に仕掛けることだ。そうでなければ、同じ傘の下で両ジャンルの作品を招聘・公開する意味がない。


その点で可能性があると思えたのは、瀬戸内の犬島で上演された維新派の『台湾の、灰色の牛が背伸びをしたとき』だ。精錬所の遺構と瀬戸内海そのものを背景に展開される歴史劇は、「近代化」(帝国主義、戦争)と「海」(ヤポネシア、琉球弧、東ユーラシア)という時間的・空間的テーマも面白いが、何よりも、例によって劇団員全員で組み上げた木造の舞台に圧倒された。無数の材木が直交して織りなす幾何学性は、背景にある精錬所の煙突の垂直性と、瀬戸内海の水平線の水平性をも含み込み、歴史の縦糸と横糸という比喩を視覚的にすんなりと呑み込ませる異形の装置として機能していた。ミシェル・フーコーは、その卓抜なマネ論(『マネの絵画』所収)の中でマネにおける垂直線と水平線について論じ、両者が生み出す長方形がキャンバスを暗示していると主張している。維新派はプロセニアムアーチと縁遠い世界を作り出してきたのだから、垂直性と水平性が舞台の暗示であるなどとは言えない。だが美術畑出身の主宰・松本雄吉が、マネやマネ論を下敷きにしていたと考えるのは楽しい。無意識の引用だったりしたら、なおのこと面白い。
それもこれも、美術ファンが観に来て初めて言えることではある。あるいは、演劇ファンが美術的な背景を読み取って初めて、と言ってもよい。歴史上何度か訪れたであろう「ジャンルの蛸壺」状態は、1970年代以降、世界を蝕み続けている。ふたつの新しい芸術祭が、壺を打ち砕いて大蛸小蛸を自由に泳がせることに期待したい。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。