COLUMN

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Out of Tokyo

218:「しゃべるダンス? おどる演劇?」
小崎哲哉
Date: May 07, 2010
『しゃべるダンス? おどる演劇?』当日の模様 | REALTOKYO
当日の模様(ユーストリームのキャプチャー画像)

いまから5年前、岡田利規が『クーラー』を引っさげてトヨタコレオグラフィーアワードに参戦したとき、演劇とダンスの境界線について正面切って論じる者は、アワードの審査員を含めて誰もいなかった。このコラムでレポートを書いたりしたが(Out of Tokyo 126)、その後も活発な議論が起こったとは言いがたい。だから岡田が出演する『しゃべるダンス? おどる演劇?』というトークイベントがあると聞いて、大いに期待しつつ、清澄白河に新しく生まれたスポット「SNAC」に駆けつけた(4/29)。

 

だが議論はいまひとつ噛み合わず、残念ながら腑に落ちるような話にはならなかった。話者は岡田のほか、振付家・ダンサーの神村恵と、モモンガ・コンプレックスの主宰でやはり振付家の白神ももこ。後半、SNACの共同運営者で、ダンス批評家にして『吾妻橋ダンスクロッシング』の企画者でもある桜井圭介氏が加わってからも、「ジャンルの違いを云々するのは無意味。面白いものは面白い」というような言葉が交わされるばかり。白神の不思議ちゃん的な話しぶりは楽しかったけれど(ファンになりました)、話者が4人のトークで実質2時間というのは、この大きなテーマには短すぎたのかもしれない。

 

この日の議論に欠けていたのは歴史的な視点だったように思う。歌舞音曲の始まりがどのようなものだったのか、もちろん知る手立てはいまとなってはない。だが始原のある時点において、「演劇」と「ダンス」が(おそらくは「音楽」とも、場合によっては「語り」とも)分かちがたく結びついていたことは想像に難くない。それが長い時間を経て分化し、一応のジャンル分けが完成したのが近代だった。その過程には言うまでもなく理由と必然性があり、だからこそいまもってジャンル分けが通用している。その事実を前提としない限り、意味ある議論が行えるわけはない。

 

チェルフィッチュ『クーラー』 | REALTOKYO
『クーラー』

たとえて言えば舞台芸術は、始原においては子供の球技のようなものだった。単純な球技は時を経て洗練され、ルールが整えられて、あるものはフットボールに、あるものはハンドボールに進化する。サッカーにおいてはボールを手で扱うことが禁じられるが、ある日、足だけでプレイすることに不自由と理不尽さを感じた若者が、試合中に半ば確信犯的に手を使った。ラグビーの誕生である。

 

この「伝説」は実は事実ではないそうだが、僕のコラムはスポーツ史についてのものではないので話を続ける。お察しの通り、このたとえ話においてサッカーはダンスであり、ハンドボールは演劇である。トークに出てきた名前を引けば、ルールを破った若者はピナ・バウシュ。若者=ピナは、サッカー=ダンスにおける禁じ手のハンド=言葉を用いて、ラグビー=タンツテアターなる新しいジャンルを生み出した。

 

ここでは、タンツテアターがダンスから生まれたこと、そして禁じ手が、それを禁じるルール内で生じたからこそ面白い結果を生んだことを強調しておきたい。ピナの功績が天才による奇跡的な例外であることは措くとして、上記の乱暴な比喩において最も重要なのはこのポイントだ。禁じ手であるハンドを使ったら、これまで以上に面白い(サッカーの)試合になった。ピナ率いるヴッパタール舞踊団が言葉を使い、「しゃべるダンス」を上演したら、これまで以上に面白い(ダンスの)公演になったのだ。

 

岡田が試みたのもそういうことだった。ただし、ピナとは出発点が異なっている。チェルフィッチュは演劇のカンパニーである。だから、演じたのは「しゃべるダンス」ではなく「おどる演劇」だった。トヨタで『クーラー』を上演したとき(あるいは『WE LOVE DANCE FESTIVAL』で2004年に同作を初演したとき)、主催者は、足技を使うハンドボールチームをサッカー大会に招聘したつもりだったのかもしれない。だがそのチームは、サッカーよりもまずはハンドボールの変革に資するほうが大きかった。あえてサッカーとして観る必要はない。面白いハンドボールの試合として受け止めて何が悪い、と僕は思う。

 

岡田は最近、「具象/表象」と「具体/身体」というキーワードを用いつつ、「演劇にできてダンスにできないことはある」「ナチュラリズム・リアリズムというのは、結局そこで何かをやってみせているということを隠す手法。(中略)僕がやっていたことというのはそういった隠蔽工作への加担だった」「(いまは)絵の具の絵の具感を消すようにやる必要はない、というようなことをやろうとしている」と述べている(RKRTのインタビューや『コンセプション』など)。これは、美術評論家のクレメント・グリーンバーグによるモダニズムの説明に酷似している。曰く「各々の芸術の権能にとって独自のまた固有の領域は、その芸術のミディアムの本性に独自なもののみと一致するということがすぐに明らかになった」「リアリズム的でイリュージョニズム的な芸術は、技巧を隠蔽するために技巧を用いてミディアムを隠してきた。(中略)絵画のミディアムを構成している諸々の制限–平面的な表面、支持体の形体、顔料の特性–は、古大家たちによっては潜在的もしくは間接的にしか認識され得ない消極的な要因として取り扱われていた。モダニズムの絵画は、これら同じ制限を隠さずに認識されるべき積極的な要因だと見なすようになってきた」(「モダニズムの絵画」/藤枝晃雄編訳『グリーンバーグ批評選集』所収)。

 

この限りにおいて、岡田はモダニストであると言える。というよりも、近代は大枠でいまだに進行中であり、そのパラダイムからまだ誰も逃れ得ていないということだろう。だとすれば「その芸術のミディアムの本性に独自なもの」をとことん追究することこそが、いまの岡田に、そしてイベント主催者を含む現代の表現者に求められていることではないか。ジャンルの変革は、ジャンルの内部から、ジャンルの本質を究めた者が行うのが本道だ。探究いまだしの異ジャンルの者に頼るのは、傲慢あるいは怠慢であると僕は思う。

 

※『クーラー』を含むオムニバス作品『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』が、2010年5月7日(金)~19日(水)まで、ラフォーレミュージアム原宿で上演されます。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。