
「なるほど、面白そうですね。でも、全公演を観るなんて不可能でしょう」。そう言われて、僕はしばし言葉を失った。飴屋法水が構成・演出を担当した『3人いる!』を観た後で入った居酒屋。話者は自身演出家でもある見巧者の友人である。



多田淳之介が書いた『3人いる!』は、パラレルワールドならぬ「パラレルアイデンティティ」を描いたとでもいうべき、複雑にして見事な物語だ。人物Aが自室にいると、別の人物A'が部屋に入ってきて、驚いた様子で「私の(俺の)部屋で何やってんの?」と問い質す。もちろんAも驚くが、さらに驚いたことにA'の名はAと同一であり、過去の記憶も直近の記憶も一致する。言い争いの果てに、決着を付けようと友人Bの家に行くと、BにはAとA'のふたりではなく、ひとりしか見えない。しかもBは、ついさっき、まったく知らない人物B'が部屋に入ってきて「私の(俺の)部屋で何やってんの?」と言われたと訴える。そう言われたA(とA')には、BとB'のふたりではなく、ひとりしか見えない……。
僕は多田率いる東京デスロックによる初演を観ていないが、飴屋演出バージョンと同じく、オリジナルバージョンも役者は3人だったと聞く。A、A'、B、B'の4役が、3人の役者によってシーンごとに演じ分けられる。いや、シーンの途中でAがB'になったり、BがAに変わったりもする。役者というアイデンティティの空の器に、複数のアイデンティティが、状況に応じて盛り込まれては移し替えられるのだ。
飴屋はそこにさらに、毎日役者を変えるという大胆な仕掛けを施した。計12日間の公演に、毎日3人ずつ、(「延べ」ではなく)計36人の役者が出演する。いずれの日も昼夜2回公演だから、総計24回の公演となる。当然のことながら稽古は同時にはできず、リハーサルも別々に行われた。ダブルキャストやトリプルキャストはときどきあるけれど、デュオデキュープル(というそうである)キャストというのは、少なくとも僕は聞いたことがない。



しかも役者は、「舞台経験のない人の方が多い」という(『対話の庭』前田圭蔵によるインタビュー)。その12組の役者陣に、飴屋は12通りの相異なる演出を施し、舞台美術も毎回変更した。例えば、僕が最初に観た8月7日の公演は、國武綾、佐野友香、柴田貴輝の3人が演じ、舞台には月の映像が大写しにされていた。2度目に観た8月9日は、畑中研人、安田裕登、チュン・イという役者陣で、モンゴル出身だというチュン・イに合わせたのか、チンギス・カンの肖像が置かれていた。8月10日の公演は、藤原みかん、キム・ウンジン、わたなべこうへいが出演し、韓国人留学生であるキム・ウンジンは、舞台上でキムチを食した。
照明や美術や小道具だけではない。役者は自らの出自や育ちに合わせて、多田の台本にはない台詞を発する。それが12日間の公演ですべて違い、特に外国人や同性愛者の役者の場合には、戯曲の主題である「アイデンティティ」がさらに強調されることとなる。僕が観た3公演は、役者はすべて男女の組み合わせだったが、全員男性、全員女性という日もあった。何日目かの幕間には、飴屋自らが「出血パフォーマンス」を行ったとも聞く。要するに、毎日まったく違う舞台が現れては消えてゆくのだ。
3度目の公演を観て、そんなことを興奮して話しまくった後に、冒頭に書いたような冷静な反応が戻ってきたのである。なるほど、入場料のことは措いたとしても、よほど時間を持て余していない限り、全公演を観るのは相当の難事であるだろう。公演はいずれも完売で、1回60名ほどの集客があったというから、観客は延べ1400〜1500名。その内の何人が、(昼夜合わせた全24公演ではないにせよ)12公演すべてを観ることができただろうか。それがおよそ不可能であるのなら、飴屋がこだわった12通りの相異なる演出とは、結局は本人の自己満足に過ぎないのではないか。



穏やかに語る友人の言葉の言外に、そういった辛辣な指摘を感じ取ったからこそ、僕はしばし言葉を失ったのだ。そして、それ以来、飴屋の試みの意味を考え続けている。上述したダブルキャストやトリプルキャストの芝居や、歌舞伎や文楽やオペラの名作、果ては映画のリメイクなどにおいて、異なる配役の上演・上映を見比べるのとは何かが決定的に違う。「舞台は一期一会、役者が同じであったとしても同じ体験はあり得ない」という主張ももっともだが、この場合、そうしたことが問題なのではない。
つまるところ飴屋は、「一回性」という演劇の持つ性質と、「アイデンティティ」という戯曲の主題に鑑み、そして各役者(と自分)の「単独性(singularity)」を尊重して、1回限りにして固有かつ単独的な芝居作りを決断し、行ったのだろう。それを「自己満足」というのはたやすいが、まず確認しておくと、原理的にはすべてを観ることは不可能ではない。パラレルワールドとは異なり、飴屋の12の芝居は「この」世界内に存在している。そして我々は、「12の異なる芝居が存在している」と想像することもできる。
さらに言えば、別の公演を観ることにより、理解は算術的ではなく幾何学的に、すなわち足し算でも掛け算でもなく冪乗するかのごとく深まってゆく。僕のケースで言えば3回観たのだから、P+P+P=3Pではなく、Pの3乗ということになる。実際、1度よりも2度、2度よりも3度観ることにより、役者がそれぞれの体験を踏まえて芝居に関わっていることがわかり、各公演の相互比較によって、演出者の意図が明確になったように感じた。
12公演すべては無理でも、3つか4つなら観られるかもしれない。芝居の理解はそうすることによって深まり、楽しみは何乗倍にもなる。とりあえずの結論ではあるが、再演を期待するとともに、再演された際にはそのように何度か観ることをお薦めしておく。全公演を完売しても、主催者と関係者の労力を超える黒字は決して出ないだろう。だが「次回」があるのであれば、3公演と言わずなるべく全公演を観たいと思っている。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。