

日本時間で7月1日、ピナ・バウシュの早すぎる訃報が届いた。僕は1984年に、ニューヨークのブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック(BAM)で『カフェ・ミュラー』『青ひげ』『春の祭典』を観たのが最初の「ピナ体験」だ。それ以来、タンツテアター・ヴッパタールの魅力に取り憑かれ、86年の初来日以降、来日公演はあらかた観ている。というよりも、コンテンポラリーダンスにはまったのはピナが直接のきっかけだ。
BAMで受けた衝撃は忘れられない。カンパニー名が示すとおりのタンツとテアターの融合、それも見事な融合は、それ以前には目にすることがなかった。『カフェ・ミュラー』では、ステージ一面に並べられた椅子やテーブルが、女性ダンサーがよろけるように動く毎に、衝突を避けるべく男性ダンサーによって取りのけられていく。ピナの両親はカフェレストランを経営していて、子供のころのピナはテーブルの下に潜り込んで、客が語り合う「残酷な大人の話」に聞き入っていた。「店には客がたくさんいて、奇妙なことがたくさん起こっていた」と回想していたという(7/1『ル・モンド』オンライン版)。その体験が作品を発想する源になったことは疑い得ないだろう。
舞台そのものと関係ないことを書いておくと、僕の真後ろには、これもいまは亡きスーザン・ソンタグが友人たちと一緒に座っていた。公演終了後に、ひょんなことからクルーバスに乗せてもらうことになり、しどろもどろでピナ本人に挨拶したことも懐かしい思い出だ。舞台評は賛否両論まっぷたつで、その後調べてみると、「否」派の筆頭、ダンス批評家のアーリン・クローチは「彼女(ピナ)は我々を、暴力や屈辱の行為に、苦痛のポルノグラフィに向かわせ続ける」と断じ、「落胆の演劇」と呼んでいる。
批評家の浅田彰による追悼記事に曰く「ドイツ表現主義舞踊を継承し、独自の『タンツテアター(舞踊演劇)』を打ち立てたピナ・バウシュが、去る6月30日に68歳の生涯を閉じた。(中略)継承といっても、戦前の表現主義舞踊そのままに、自己の情念を身体で表現したわけではない。むしろ逆だ。(中略)モダンな表現主義を裏返しにした、それは最良の意味でポストモダンな舞台だったともいえるだろう」(7/7『朝日新聞』)
そのポストモダン的な表現は、多くの後進に受け継がれた。例えばダンス批評家で振付家でもあるデボラ・ジョーウィットによれば、ニューヨークでは、先に触れた84年以降「バウシュ作品を好むと好まざるとに関わらず、観に行かないなんてことは考えられなくなった。そして、マース・カニンガムの『運動は意味』原理に学んだニューヨークの若い振付家たちは、感銘を受けるとともに興奮したのである」(7/1『Village Voice』オンライン版)
また、ニューヨーク・タイムスの記者、ダニエル・ウェイキンによれば「彼女の影響は、ヤン・ファーブル、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル、サシャ・ヴァルツ、アラン・プラテルら、ヨーロッパの振付家の作品に顕著である。また彼女の作品は、演劇とダンスの境界に疑問を呈するアメリカのコンテンポラリーダンスの振付家にも大きな影響を与えている」(7/1『New York Times』オンライン版)。ちなみに上述の『ル・モンド』オンライン版は、演劇・ダンス界の人々のほか、ジンガロを率いるバルタバスや、故フェデリコ・フェリーニのコメントを掲載している。映画といえば、ペドロ・アルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』に出演した際の、ピナの美しい姿も忘れられない。

Main entrance of the Schauspielhaus Wuppertal (both photos taken on July 3)
そのピナのクロスジャンル的な作風を培ったのは、クルト・ヨースのもとで学んだエッセンのフォルクヴァンク芸術大学における体験だろう。大学といっても、ピナがここで学び始めたのは14歳のときのこと。18歳で首席卒業しているのだから、やはり神童である。この大学について、本人が後年述懐していることが興味深い。
「この時代のフォルクヴァンクでは、あらゆる芸術はみんな一緒だった。音楽や演技やマイムやダンスなどの舞台芸術だけじゃなくて、画家も彫刻家もデザイナーも写真家もいた。小さなバレエスクールに行っていたら、まったく違う体験になっていたでしょう」(2002年、ガーディアン紙によるインタビュー。7/1『Guardian』オンライン版より孫引き)
前出のデボラ・ジョーウィットの記事によれば「彼女の(作品の)コラージュ的な構造は、アート界よりもむしろレビューやボードビルのスタイルに由来する」。そう、やはりタンツテアター・ヴッパタールの原点は、「残酷な大人の話」が飛び交うカフェレストランに、「あらゆる芸術」が「みんな一緒だった」芸術大学の環境に、そして大衆演劇の世界にあったのだ。人生における様々な体験についてダンサーたちの話を聞き、その話を作品に盛り込んでゆくという彼女ならではの手法も、これらの原点抜きでは考えられない。
ピナの死に当たって、こういうときによく使われる紋切型は使いたくない。実際には、ピナが種をまき、自ら育てもした「タンツとテアターの融合」は、世界中で見事に多くの実を結びつつあるのだから。ただし、上述のような豊かな世界が消滅に向かっているのだとしたら、ピナの後継者の誕生など望むべくもない。そして僕たちは、この希有な表現者の消失とともに慨嘆しなければならないだろう。「ひとつの時代が終わった」と。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。