COLUMN

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Out of Tokyo

206:東京的アートとは? II
小崎哲哉
Date: March 14, 2009
「マース・カニングハム・ダンス・カンパニイ」1965年、ポスター | REALTOKYO
「マース・カニングハム・ダンス・カンパニイ」1965年、ポスター、シルクスクリーン、1030×728mm、川崎市市民ミュージアム所蔵

川崎市市民ミュージアムで『複々製に進路をとれ 粟津潔60年の軌跡』展が開かれているが(3/29まで)、閉幕直前の3/27(金)に開催されるシンポジウム『市民−粟津潔−ミュージアム これからの美術館像』のモデレーターを務めることとなった。パネリストは、酒井忠康(世田谷美術館館長)、浜田剛爾(国際芸術センター青森館長)、不動美里(金沢21世紀美術館学芸課長)、中島健志(川崎市総合企画局施策推進担当主幹)、平井直子(川崎市市民ミュージアム学芸員)の各氏である。

 

1929年生まれの粟津潔は、独学でグラフィックデザインの技術を身に付け、50年代に演劇や映画のポスターで脚光を浴びた。しかしデザインの枠内に留まらず、美術家、音楽家、映像作家、演劇人、建築家らと縦横に交遊し、さらには油彩や水彩画を描き、版画を作り、彫刻を造り、写真を撮り、映画を撮り、舞台美術や映画の美術を担当し、マンガを描き、雑誌を創刊して編集し、アートパフォーマンスを行い、文章を書き、対談を行い、書き漏らしていることはまだまだあると思うが、とにかくとてつもなく幅広い領域での表現活動に携わってきた。国際的な活動、協働こそ少ないとはいえ、日本においてはアンディ・ウォーホルやジャン・コクトーに比すべき存在と言っても過言ではないだろう。

 

「第6回現代日本彫刻展」1975年、ポスター | REALTOKYO
「第6回現代日本彫刻展」1975年、ポスター、オフセット、1030×728mm、川崎市市民ミュージアム所蔵

注目すべきは、一貫して現代的なその姿勢である。赤瀬川原平が最初に言ったという「複々製に進路をとれ」は、もちろんヒッチコック映画のタイトル『北北西に進路を取れ』の地口だが、粟津や、その同時代の表現者の方法論をよく表している。哲学において、ヴァルター・ベンヤミンからジャン・ボードリヤールへと至る「複製芸術時代」の認識は、粟津たちにおいては具体的実践を伴っていた。本人の言を借りれば「ぼくらはある意味では、ニセモノの全的文化状況から出発している」「オリジナルというのは今はないんですよ」(74年、小説家/詩人の冨岡多恵子との対談「複製時代のデザインと詩」)。粟津は同じ対談で「優れたいい複製よりも、ガタガタにズレた、転写した複製のほうが存在感があります」とも述べている。実際、シルクスクリーンやオフセットの作品に「ガタガタにズレた、転写した複製」を用いたものが少なからず見られる。

 

「EX・POSE 1968 変身あるいは現代芸術の華麗な冒険(青)」1968年、ポスター | REALTOKYO
「EX・POSE 1968 変身あるいは現代芸術の華麗な冒険(青)」1968年、ポスター、シルクスクリーン、728×515mm、川崎市市民ミュージアム所蔵

粟津が身をもって提示した問題系は、現在進行形で刺激的だ。伝統と革新、オリジナルと複製、意図と偶然、アートとデザイン……。何よりも魅力的なのは、上述した横断的な活動だ。当人は多くの機会に、異文化・異ジャンル混淆の重要性を述べている。例えば「私はもともと新しい文化は異文化同士のぶつかり合いから生まれると思っているのです。(中略)異質なものに刺激されることによって、新しい命のある文化が生み出されてゆく」(82年、「デザインをはじめてから」。上記対談とともに現代企画室刊『デザイン巡遊』所収)。思うに粟津たちが活躍した時代は、表現者の異ジャンル混淆によって「新しい命のある文化」が生まれ、享受者(観客/聴衆)もジャンルを超える鑑賞に積極的な時代だった。

 

「東京展」1975年、ポスター | REALTOKYO
「東京展」1975年、ポスター、オフセット、728×515mm、川崎市市民ミュージアム所蔵

その意味で今回のシンポジウムは、時宜と場所のよろしきを得ていると思う。時宜というのは、「公立美術館が指定管理者制度に移行した時代」という短い期間を指すに留まらず、「美術史的に美術館や美術に関わる制度が見直しを迫られている時代」、さらには「表現者/享受者が異ジャンル混淆に消極的な時代」を意味する。場所のよろしきというのは、「川崎市市民ミュージアム」という粟津が開館に深く関わった会場を指すに留まらず、「美術のメインストリームから離れた非欧米圏の大都市」を意味する。当日は、美術界と文化行政の第一線で働くパネリストたちに、「現在、東京らしいアートとは何か?」を問いたいと思う。ここで「東京」とは、行政区分的な首都を指すのではなく、川崎をも含むメガロポリス、ひいては均質化したと言われる日本や東アジアの都市空間全体を含意するものだ。

 

話は少し変わるが、僕は3月上旬に、5つの美術展、5つの舞台芸術作品、デザイン展ひとつ、トークイベントふたつを観た。オープニングレセプションだった場合もあるし、平日昼間というそもそも観客の少ない時間帯だった場合もあるが、ともあれ観客/聴衆の異ジャンル混淆が意識されたことはまったくない。粟津たちが最も活発に活動した時代に比べると、これは明らかに退行ではないだろうか。

 

「リトアニアへの旅への追憶」1973年、ポスター | REALTOKYO
「リトアニアへの旅への追憶」1973年、ポスター、オフセット、728×515mm、川崎市市民ミュージアム所蔵

『やなぎみわ マイ・グランドマザーズ』展(3/6、東京都写真美術館)のオープニングには舞台関係者の姿が散見されたが、これは隣のガーデンホールで東京芸術見本市が開催されていたからだろう。アクラム・カーンとジュリエット・ビノシュの共同演出/共演で話題の『in-i』初日(3/9、シアターコクーン)は、さすがに映画関係者が目に付いたが、ビノシュのスター性を考慮すると、これは例外と言うべきだろう。視線をテーマのひとつとし、ファン・エイクの自画像が意外な形で登場するロメオ・カステルッチの『Hey Girl!』(3/11、にしすがも創造舎)は、なぜファン・エイクであり、ベラスケスではないのかなど、美術関係者にとって刺激的な主題が盛り込まれていたが、演劇関係者の姿ばかりが目に付いた。東京裁判に材を採りつつ、楽しくも意外な仕掛けを盛り込んだ「まちあるきパフォーマンス」、Port Bの『サンシャイン63』は、参加者が5人ひと組なので全体の傾向はわからないが、他ジャンルの愛好者からの声はいまのところまったく聞こえてこない。

 

1年半前にこの連載で書いた「東京的アートとは?」では、美術館の内部における領域横断の試みについて記した。しかし、真に求められるべきは、美術館を含むあらゆる文化表現主体が、中心なき網状の関係を結んで、「異文化同士のぶつかり合い」を生じせしめることではないか。つまり、美術館の「外部」こそが重要なのだ。もちろん、そのために美術館が、表現行為の混淆や領域横断を実現させる駆動力のひとつとなることは大いに望ましい。シンポジウムでは、美術館がその担い手となりうるかどうかも併せて問うてみたい。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。