

1月31日、代官山ヒルサイドプラザで開催された向井山朋子のライブは、期待に違わず熱のこもったものだった。例によって、と言うべきか、複数の曲があるときは滑らかに、あるときは暴力的に接続されていく。僕がわかったのはシューマンとリゲティくらいで、でも誰の曲かなんて考えずにすむくらい、見事に「向井山の」音楽として完成されていた。ライブ後のトークで、評論家の小沼純一は「DJのようなリミックス」と評していた。サンプリングとリミックスが、クラシック音楽の世界でどのくらい一般化しているのかは知らないが、小沼が言うのだからまだ例外的なのだろう。当のピアニストは、「作曲家は(奏法に関して)うるさいから、こういう機会に復讐してやるの」と涼しい顔でのたまっていた。
曲こそ(いくぶんか)違え、このスタイルは最新作『Sonic Tapestry』でも同様である。代官山で行われたのはレコ発ライブだったから、ライブがアルバムと同様と言うべきかもしれない。ともあれ、バロックから現代音楽までの曲の断片が、大胆に引用・解釈され、間に即興演奏やノイズを挟みつつ、ひとつながり、ひとかたまりの「綴れ織り」を形成してゆく。最後はヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」で、それが大鋏で断ち切られるかのように突然終わるのだが、ここでもやはりゴダールを連想した(OoT167参照)。平穏な日常に、不条理な暴力が唐突に挿入されるような印象。いや、日常には暴力が潜在的にインプットされていて、それがしかるべき時期に現れるというだけのことかもしれない。そんなことまで考えさせられる構成、演奏だ。


アルバムが収められているCDブック『en blanc et noir: 白と黒で』は、ちょっと衝撃的だった。向井山の亡夫、写真家のフィリップ・メカニカス(1936 -2005)の作品14葉を収録したLPサイズのプチ写真集なのだが、極めて濃厚な「私」の匂いが漂っている。黒いパンティストッキングが伝線し、白いパンティと太ももの一部が露わになっている尻の写真、エロティックな下着を纏ったのみで、ソファに横たわり、あるいは仰向けになって体を曲げた半裸の写真。いずれも被写体は向井山だ。窮屈そうなポーズのものを除いて、表情は無防備と言ってよいほどに自然である。夫とふたりだけの密室で、ほかならぬ夫によって撮られているのだから当然と言えば当然だが、だからこそ第三者はある種の後ろめたさなくして見られないだろう。夫婦の閨房を窃視している感覚に近い。
ヌード写真はすべて、向井山自身が望んで入れたという。これまでにもアルバムジャケットにヌードを用いたことはあるが、夫が亡くなった後に、何かを振り切ろうという決意のようなものが生じたのに違いない。ヌード以外はメカニカスの写真集『De laatste keuze』(最後の選択)から選んでいて、それを見るとこの写真家の才能がよくわかる。大部分がモノクロームで、街角の風景を捉えた作品にはアンリ・カルティエ=ブレッソンばりの「決定的瞬間」がある。ちょっとした小物や、ポートレートの被写体の表情の中に、ロラン・バルトの言う「プンクトゥム」も散見される。もっとも後者は、被写体に芸術家が多いということが大きいのかもしれない。中には、わずかにわざとらしすぎるポーズのために、やや興ざめするものもある。しかし全体を見れば、写真家としての正攻法的な姿勢は明らかだ。被写体に対等に接すること。そのときのその人らしい瞬間を捉えること。ただし、その瞬間に、偶然というまさしく写真的な不確定要素が入る可能性を排除しないこと。



『en blanc et noir』に掲載されている向井山のヌードは第1点が違う。碩学、澁澤龍彦は「ポルノグラフィーの世界では、そこに登場する人物はことごとく物にされてしまう。(中略)みずからすすんで客体になることが、どれほどの自由を消尽せしめる行為であるかは、多少なりともエロティックの機微を知ったものには自明の理だ」と記しているが(「植島啓司『分裂病者のダンスパーティ』序」/『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』所収)、ここでの向井山は、夫の求め(欲望?)に応えて見事に「みずからすすんで客体にな」っている。だからこそ我々第三者は後ろめたく感じるのだ。いま我々の視線に供されている「物」は本来、我々のためにあつらえられた「物」ではない。「物」の所有者は我々ではなく別に存在する。その所有者の「物」を、我々は覗き見させてもらっているにすぎない。しかも、その所有者はすでに亡く、我々は彼に許諾をもらうことすら叶わない。
向井山は、今年夏に開催される第4回越後妻有アートトリエンナーレに、自らの経血を付着させた白いドレスを用いたインスタレーションを出展する予定だ。『en blanc et noir』のヌード写真と同様に、これも極めて「私」的な着想の作品であることは言を俟たない。経血は人間ではないから「みずからすすんで客体になる」わけではもちろんない。しかし、彼女が実際に「所有」していたもの、あるいは依然として彼女の分身であるとも言えるわけで、その意味では「みずからすすんで客体になる」とも表現しうるだろう。そのあたりを、『en blanc et noir』と比較して考えてみるのも面白い。
メカニカスの死後に出てきたというこれらの写真を「いつ撮られたのかも、どんな状況だったのかも憶えていない」と本人は言う。それが本当なのか、実は憶えていて口に出したくないのかはわからないし、詮索する気もない。いずれにせよ表現者としての向井山には、「主」なき後に「客体」としての自己をさらけ出す行為が必要だったのだ。『Sonic Tapestry』の音楽のように暴力的に切断された生。その断面に残された「美しい日々」を私的な思い出として保存するのではなく、「主」ならざる不特定多数に、「主」の視線の不在を埋めさせて心のバランスを取るべく共有を強いた。そう断じるのは残酷に過ぎるだろうか。
向井山朋子+フィリップ・メカニカス『en blanc et noir: 白と黒で』
発行・発売:アートビートパブリッシャーズ
Philip Mechanicus『De laatste keuze』
発行・発売:Voetnoot
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。