COLUMN

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Out of Tokyo

203:戦争と芸術
小崎哲哉
Date: January 30, 2009
『戦争と芸術III 美の恐怖と幻影』展 ポスター | REALTOKYO
『戦争と芸術III 美の恐怖と幻影』展 ポスター

ガザ停戦の前日とその1週間後に、京都で『戦争と芸術III 美の恐怖と幻影』展を観た(京都造形芸術大学 ギャルリ・オーブ。2/5まで)。タイトルにあるように今回で3回目。前回はトマス・デマンド、ダレン・アーモンドも出展していたが、今回は藤田嗣治の戦争画が特別出品されている以外は、現役の日本人アーティスト6人の作品で構成されている。

 

戦争画は戦後、日本近代美術史におけるタブーであり、恥部であるとされた。後者について言えば、例えば画家、小説家の司修は「日本の戦争画から生まれたものは、芸術家の奢りと、『無智な大衆』より劣る精神の貧弱さでした。そのような作品(大東亜戦争画)が芸術として評価されてよいはずがありません」「大東亜戦争、あるいは十五年戦争が日本の歴史の恥部であるとすれば、『大東亜戦争画』も恥部、僕はそう思うのです」と断じている(『戦争と美術』1992年)。こうした、真摯ではあるが教条的に聞こえる物言いがいまも通用するのかどうかは知らないが、近年は藤田らの戦争画も積極的に公開されている。

 

とはいえ「戦争」を扱う展覧会をタブー視する風潮は、依然として残っているようだ。『戦争と芸術』展を企画したインディペンデントキュレーターの飯田高誉(京都造形芸術大学国際藝術研究センター所長)によれば、「東京では『戦争と芸術』というタイトルは、あまりに政治的な響きを持つので展覧会が実現できませんでした」とのこと(『REALKYOTO』収載のインタビュー。インタビュワーは高橋洋介+静内二葉)。京都という比較的自由な気風の土地柄で、しかも飯田自身が勤務する美大が運営するギャラリーだからこそ実現した、という現実はいささかほろ苦い。

 

20年以上前のことだが、自分自身の経験に似たような事例がある。ある大手出版社に途中入社して、真っ先に「キノコ雲の写真集」という企画を提案した。直属の上司に「そんなものが売れるわけはない」と即座に握りつぶされ、宮内勝典のノンフィクションを文庫化する際に、章扉にキノコ雲の写真を用いてわずかに溜飲を下げた。上司の「売れるわけがない」という言葉の背後に、僕は飯田が感じたのと同種のタブー視を感じていたのだ。だから7〜8年後に、楠見清が企画編集し、東泉一郎がアートディレクションを務めた『アトムの時代 the age of the atom』が出版されたときには、快哉を叫ぶとともに少しだけ悔しかった。2003年にマイケル・ライトの『100 Suns』が刊行されたときも同様である。

 

この手のタブーがまだ残っているという点で、アート界は出版界に後れを取っているわけだが、『戦争と芸術』展には古井智の油彩「Mushroom Cloud」が出展されている。併せて、同じ作家による詳細な「核年表」も展示されている。1/23に京都造形芸術大学で行われた同展関連トークで、古井は「スミソニアン航空宇宙博物館の原爆展中止を機にキノコ雲のシリーズに着手した」と発言した。藤田らの「戦争画」とは、制作の動機(あるいは理由)はまったく異なるが、「戦争と芸術」というテーマには、無論ふさわしい作品だ。

 

宮島達男 | REALTOKYO
宮島達男 Tatsuo Miyajima
アウシュビッツへのタイム・トレインNo.3
Time Train to Auschwitz No.3
2008
Fleischmann 5732, HO rail, metal bar, LED, electic wire
山口晃 | REALTOKYO
山口晃 Akira Yamaguchi
日清日露戦役擬畫
The Imitative Painting of The Sino-Japanese War and The Russo-Japanese War
2002
pencil, pen, warter color on paper
大庭大介 | REALTOKYO
大庭大介 Daisuke Ohba
究極の武器(モンスター)
Ultimate Weapon(Monster)
2006
FRP

参加作家はほかに、横尾忠則、宮島達男、山口晃、佐々木加奈子、大庭大介。同じ部屋に展示された宮島のオブジェと佐々木の映像は、どちらも列車がテーマ。宮島のは、お馴染みの数字がカウントダウンされるLEDを、小さな模型の車体に仕込んだもの。佐々木のは、進む列車の最後部に作家本人が横たわり、鉄路に落ちている服や靴などを拾い上げていくという(実は逆回しの)作品。いずれも、クロード・ランズマンのドキュメンタリー映画『ショアー』で映像と音が反復されていた、ナチスが仕立てた絶滅・強制収容所行きの輸送列車を連想させる。モルデカイ・アルドンの「数字の列車」や、オノ・ヨーコの「貨物車」とも響き合う(OoT 008参照)。

 

それだけ観ると、隠された主題は明らかなようにも思えるが、飯田は(内心の意図はどうであれ)「反戦」「非戦」を前面には出さない。例えば、横尾の新作絵画はマッカーサーや昭和の流行歌手、渡辺はま子らを扱っていて、昭和天皇を連想させる「AH! SO」などという文字が描かれている。横尾本人が特攻隊員に扮して(軍服にはCMロゴなどが明るくあしらってある)篠山紀信に撮らせた写真もある。山口はバイクのような騎馬に載った白人の軍勢が骸骨軍団と闘う、寓意に富んだ旧作「十字軍」(1993)を出品。だが大半は「司馬遼太郎の『坂の上の雲』に触発されて」描いたという、日露戦争時の戯画めいたドローイングだ。大庭は見る角度によって光って見える特殊絵具を用いた油彩のほか、攻撃欲を具象化したかのような、武装ロボットにも思える彫刻を出展している。ここに藤田の戦争画が加わるのだから、司のように単純な善悪二元論を喚起するのが目的でないことは明らかだ。

 

「結果」としてのキノコ雲も含め、近現代科学の最先端たる戦争テクノロジーが生み出した武器は、少なからぬ場合に「機能美」を伴う。古井や宮島や大庭はどうか知らないが(そして、アーティストと自らを比べることはおこがましいかもしれないが)、僕が「キノコ雲の写真集」を企画した際には、「美」を収集し、世に出したいという動機が大きくあった。言うまでもなく「悪」は「美」と、両立どころか同居しうる。数年前の『ガンダム』展や、チャップマン・ブラザースらの作品なども、戦争ごっこやプラモデル作りに興ずる少年の稚気に加え、欲望の具現化としての「美の追求」が大きな目標ではなかったか。

 

戦争などないほうがいいに決まっている。だが戦争が続こうがなくなろうが、戦いや武器に「美」を感じる感性は確実に存在する。その狭間に美術を始め、あらゆる表現行為が生まれる余地が生じる。余地を埋めようとする「政治的な正しさ」が、表現者の欲望をタブーとして抑圧するわけだが、我々は戦争そのものと同様に、抑圧とも闘わなければならない。『戦争と芸術』展を東京でも観たい。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。