

初めてフジ・ロック・フェスティバルに行った(7/25-27)。苗場に会場を移して10年という節目の年で、オオトリの忌野清志郎が癌の転移発覚で出演中止となったのは残念だったけれど、いろいろ楽しめた。何よりも、ロックらしいロックに触れられたことがうれしい。
十代のころは大のロックファンだった僕が「ロック離れ」したのにはいくつか理由がある。いちばん大きいのは、多くのロッカーが対抗文化という枠組を離れ、急激にメジャー化を図り、商業主義に向かっていったという点だ。商業的に成功することと「商業主義」との間には何億光年もの隔たりがある。「メジャー化」が(結果的に)「大勢に聴かれること」「有名になること」「売れること」に留まるのであればおよそ問題はないし、ポピュラーカルチャーとしてご同慶の至りだが、そのために志を失っては本末転倒だ。1960年代後半から70年代初頭にかけて、ロッカーであるということは、自分たちを取り囲む巨大なシステムに対して異議申し立てをする存在であり続けることにほかならなかった。その姿勢を放棄することは、若く素朴なロック信者にとっては大きな裏切りに感じられたのだ。
例えば、僕と同じアマチュアバンドでベースを弾いていた友人は、当時人気を博しつつあった某バンドに引き抜かれてプロになった。3年ほど在籍し、サポーティングミュージシャンとして他のバンドのライブや録音にも参加する売れっ子になった。その彼が業界を離れたのは、テレビ出演の話が舞い込んできて、その際にユニフォームを着ることを強要されたからだ。グループサウンズの時代はとうに終わっていたというのに……。言うまでもなく、アマチュアの友人たちは彼の決断を断固として支持した。「30歳以上を信じるな!」という言葉は死語になりかけていたが、ロッカーがテレビに出ることがそもそも、許し難い背信行為だという暗黙の共通意志があった。MTVが始まる何年か前のことだ。
マスメディアとしてのテレビの位置や、表現媒体としての映像の価値はどんどん変わってきている。だからこの話は、当時の素朴だった若者が、オヤジになってからの繰り言だと捉えてもらってもかまわない。しかし、「ロック(ロッカー)とは何か」を問い続けることはいまも重要ではないか。そして「異議申し立て」は、いまだにロックとロッカーが最優先すべき行為と姿勢ではないか。大文字の物語が消え、システムが巧妙に不可視の存在になりつつあるこの時代においては、「実験的であり続けること」と言い換えてもよい。

photo: Naruse Masanori
その意味で、フジ・ロック「Green Stage」初日のオオトリを飾ったマイ・ブラッディ・ヴァレンタインには感動した(7/25)。21世紀になってもロックの魂が存在しうることを、身を以て示してくれたのだ。昨年、十数年ぶりに活動を再開したマイブラは、88年と91年に1枚ずつアルバムを出しただけということもあって「伝説の存在」と化していた。会場で配られていたフリーペーパーによれば、昨今のフジ・ロックは30代・子連れが増えているそうだ。初来日は91年だったから、30代以上のファンには待望の再来日だったに違いない。派手なステージアクションは一切なく、MCもほとんどなく、しかしシンプルでキャッチーなメロディとダンサブルなリズム、そしてもちろん、あの脱力ボーカルとノイジーなサウンドとで、僕を含む多くの聴衆は1曲目から踊り狂った。

photo: Naruse Masanori

photo: Naruse Masanori
圧巻だったのは最後の「You Made Me Realise」だ。聴衆をさんざん踊らせた挙げ句に、曲の途中からリズムもメロディもない轟音ノイズだけの世界に突入。モニターで見る限り、ケヴィン・シールズ(g & vo)とデビー・グッギ(b)の指はそれなりに動いていたが、もうひとりのギタリスト(& vo)、ビリンダ・ブッチャーはワンコードを貫き通した。僕は時間を計らなかったけれど、自らの演奏を翌日に控えつつ、わざわざ聴きに来たという山本精一に聞いたら25分も続いたという。ドラマーのコルム・オコーサクだけはさすがに苦しそうだったが、ほかの3人は「シューゲイザー(靴を見つめる人)ロック」の異名に違わず、わずかに微笑む程度の無表情で、うつむきがちに坦々と巨大ノイズを発し続けた。
ダンスを楽しんでいた聴衆の一部は、もちろん不満だったに違いない。ステージ正面から離れる人の姿も目に付いた。だが、これこそがロックスピリットだと僕は思う。実験精神を失わないこと。実験を恐れないこと。実験すること。実験を楽しむこと。山本によれば、マイブラの影響は巷間言われるライドやチャプターハウスばかりでなく、山本自身やフリッパーズ・ギターらにも及んでいる。「ステージ上でのサービス精神がまったくないことも含めて『天然』だと思いますが(笑)、とにかく自分たちがやりたいことをやりたいようにやっているのがすごい。あのノイズはソニック・ユースにも通じますよね」という指摘には深く納得。ちなみに25分の爆音ノイズの後は、何ごともなかったかのようにダンサブルなサウンドに戻った。聴衆が一気に再爆発したのは言うまでもない。
翌日のPARA(@「Orange Court」)は、メロディアスだがすべて変拍子の曲で、これも実験精神に満ちていた。違うのは変拍子でも終始ダンサブルだったことと、山本のMCがサービス精神にあふれていたことだ。夕方、山本はひとり苗場食堂に移動し、不破大輔、佐々木彩子と組んだザ・トリオ de フォークジャンボリーで、往年の新宿西口フォークゲリラの名曲「プレイボーイ、プレイガール」(フォーク・キャンパーズ)の替え歌を披露した。正確な歌詞は忘れたが、以下のような内容である。「プレイボーイ、プレイガール、勝手なまねするな……(ここまでは原曲)。食糧問題、石油の買い占め、勝手なまねするな……」。そして真骨頂は「みんなが行くから苗場に行く人、フジ・ロックに来ないで……」

付和雷同や「長いものに巻かれる」のではなく、自分たちがやりたいことをやりたいようにやること。「フォークジャンボリー」を名乗りつつ、ここにもロックの魂を持つ音楽家を見たように思う。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。