COLUMN

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Out of Tokyo

187:青森で考えたこと II
小崎哲哉
Date: May 22, 2008
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'Mother and Child, Divided' 1993, 208.5 x 332.5 x 109cm (x2), 113.6 x 169 x 62cm (x2) steel, GRP composites, glass, silicone, cow, calf, formaldehyde solution Astrup Fearnley Museum Oslo

承前

思い出したのは、現代美術ファンなら誰でも知っているデミアン・ハーストの「母と子、分断されて」である。牛の母子の実物を2頭とも左右対称に切断し、ホルマリン漬けにした作品で、1993年にヴェネツィア・ビエンナーレのアペルト部門に出展、95年にはターナー賞を受賞して、大きな話題となった。現在、東京の森美術館で開催中の『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展』(7/13まで)で、目玉作品として展示されている。ハーストはほかにも、実物の鮫や羊、牛の頭部などをホルマリン漬けにしている。

 

この作品の存在を知ったとき、僕は「なぜこれがアートなのだろう?」と考えたものだ。というのは、91年にシカゴの科学産業博物館を初めて訪れた際に、建物の隅に、ほかの展示物に隠れるようにして、スライスされた男女ふたりの人体が展示されていたのを見ていたからである。比較的若い黒人のカップルで、確か「1950年代に交通事故に遭い、身許不明だったので解剖・展示した」というような説明書きが付されていた。どちらか忘れたけれど、片方が垂直に、他方が水平に、それぞれ1インチ刻みで切断されていた。


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個展『New Religion』(the Palazzo Pesaro Papafava, Venice) より「The Skull Beneath The Skin」(2005)

50年代といえば公民権運動が始まった頃合いだが、64年の公民権法成立、その後の黒人解放運動を経て、90年代になってもまだ有色人種の死体が(しかも切り刻まれて)、公立博物館に展示されていたことが驚きだった。その後、プラスティネーション技術を用いた『人体の不思議展』が95年の東京を皮切りに欧米亜で開催され、実物の死体/解剖標本は多くの人の目に触れるようになった。ここでも展示の倫理性を問う声は絶えないが、この稿ではそれらの疑問には触れない。問題は、科学博物館や、(一応は)学術的な展覧会に展示される切断された人体と、ハースト作品との相似点、相違点だ。

 

相似点1:両者ともに、現代の日常生活では目に触れることの少ない死体である。
相似点2:両者ともに、死体を切断し、併せて長期保存できるようにしている。

 

相違点1:片や人体、片や動物(哺乳類だが、非=人間)である。
相違点2:特に羊や牛からは、クローニング技術や、BSEなどの疾病が連想される。


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同「The Fate of Man」(2005)

細かい点はほかにもあるだろうが、突き詰めるとこれだけのことであるように思える。90年代は、食の安全や遺伝子操作などが急に問題化した時代だったから、相違点2はそれなりに重要だった。ハーストのアンテナはそういった問題を敏感に捉え、インパクトのある視覚表現として、作品化を行ったのに違いない。死んだ動物は、単に自らの死を提示しているのではない。自らが、我々人間の死をもたらす可能性を秘めていることを、自らの死(死体)をもって示しているのだ。二重の意味で「死」を表象しているのである。


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同「The Fate of Man」(2005)

「死」は、一貫してハーストの主題である。「僕はすべてにおいて精神的矛盾を自覚している。例えば、僕はいずれ死ぬけれども、永遠に生きていたい。事実からは逃れられないが、欲望を取り除くこともできない」(参照)。「『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』という偉大なゴーギャンの絵画があるけれど、これこそがアートの大きな問題だと思う」(参照)。このように語る作家は、「筋金入りの無神論者」を自称し、どくろをモチーフとした作品をいくつも作り、鮫の死体のホルマリン漬けには「生きている者の心における死の物理的な不可能性」というタイトルを付けている。反語として読むまでもなく、メッセージは直截に「メメントモリ(死を想え)」だ。『母と子、分断されて』についてテートの館長、ニコラス・セロータは「おそらくこの作品は、生と死に関する、そして母と子の心理的かつ物理的な別離に関する試みなのだろう。とりわけ、この作品が最初に出品された展覧会が開かれたヴェニスが、マリアと幼子キリストの像があふれている街であることを思えば」と述べているが(レクチャー『モダンアートなんか怖くない』2000年)、同作品においても主題はもちろん同様であり、そこで人体スライスとの新たな相似点、相違点が導き出される。

 

相似点3:両者ともに、不特定多数の公衆を対象に公開されている。
相違点3:だが片方に芸術的な主題・意図はなく、他方にはある。


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同「The Sacred Heart」(2005)

これはすなわち「アートはアートとして提示されるからこそアートなのである」という、文脈主義に立脚した同語反復的なアートの定義を追認するものだ。ハーストは、「死」を美術館という場に現前させることにより、公衆に対して「メメントモリ」という主題を(相違点2の「死に至る病」とともに)提示している。だからこそハースト作品はアートたりえ、シカゴの人体スライスや『人体の不思議展』の展示はアートたりえない。だが、ここで「Out of Tokyo 186」で呈した疑問に戻って考えてみたい。すると、相似点2で指摘した「長期的」という点が、僕が六ヶ所村で体験した悪夢のような出来事と決定的に異なることに気がつく。整理してみよう。

 

人体スライスと『人体の不思議展』:長期的/主題・意図なし
ハースト作品:長期的/主題・意図あり
六ヶ所村体験:一過的/主題・意図なし

 

Out of Tokyo 167」や「185」で触れた宮永愛子や水川千春の作品においても、(長期的か一過的かはさておき)「主題・意図あり」は間違いのないところだ。「芸術家は自らの一過的体験もしくは熟考した思惟を糧に、主題と意図を込めて、他者が追体験(のシミュレーション)あるいは共感できるような表象をつくり出す」ととりあえずは言えるだろうか。アートは特異な現実の矮小化ではなく、特異性を普遍的な一般性に昇華する表象作成行為である、と。

 

とはいえ、六ヶ所村体験と同様に主題も意図もない恐山やアウシュヴィッツは、半永久的とは言わないまでもかなり長い間、そこに在り続ける。そして、土地が我々に与えるインパクトは、(繰り返しになるが)ほとんどのアート作品の比ではない。比べること自体が間違っているのだろうが、僕の中には釈然としない思いがまだ残っている。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。