COLUMN

outoftokyo
outoftokyo

Out of Tokyo

184:触媒としてのネグリ
小崎哲哉
Date: April 03, 2008
photo
3月29日の東京芸大

トニ(アントニオ)・ネグリの来日が中止された。招聘元の国際文化会館や、講演を予定していた東京大学、京都大学、東京芸術大学の企画者によれば、外務省や在フランス日本大使館が、数ヶ月前から「ビザは不要」と言っていたのにもかかわらず、来日直前になって突然、言を翻したとのことだ。「赤い旅団」のテロ事件への関与による「犯罪歴」が、入国に際して問題になりそうだというのが理由だった由。その後、法務省入国管理局より、ネグリが政治犯であることの正式の証明があれば、出入国管理法が定める「例外」に当たるために入国を認めるが、なければ認められないと言われ、「八方手を尽くし」たが、その証明の「入手そのものが難しいことが判明」したので断念したのだという。

 

photo
東京芸大構内

YouTubeにアップされたビデオを観ると、招聘を企画したひとり、神戸大学の市田良彦教授は「日本政府に悪意があるのか、無知なのか、あるいは両方やろ」と憤っている。いまどき、左翼思想家のひとりやふたりが入国しても脅威になるとは思えないから、外務省や法務省に悪意があるわけではなく、単に無知、あるいは思考停止状態なのではないか。あるいはそうではなく、ビザの要不要を確かめたことがやぶ蛇になった可能性はある。「OKですか?」と聞かれた役人たちがどういう態度を取るかは、「Out of Tokyo 93-94 横浜美術館の失態I&II」に書いたとおりだ。真相は案外、この辺にあるのかもしれない。

 

個人的には、ネグリが来日したとしても、新しい知見をもたらすようなことはなかっただろうと思う。「マルチチュード」という人口に膾炙した表現は、本人の言葉を借りれば「主体の多様性」であり、「生産的な<特異性>の集まった階級」であり、「自由に自己表現し、自由な人間の共同体を構成する主観性の大いなる集合的地平」である(『ネグリ 生政治的自伝——帰還』より)。アウトノミア運動の理論的指導者として、旧左翼の党派性や全体主義的傾向を批判するのは当然だとしても、こういった定義では浅田彰に「有象無象」と訳されても仕方がない(『文學界』2004年11月号所収「シンポジウム 絶えざる移動としての批評」)。同じシンポジウムで、柄谷行人は「帝国とマルチチュードというのは、一九世紀半ばにマルクスがブルジョア階級とプロレタリア階級に両極分解するといったのと似ていて、あまりにおおざっぱすぎる」と喝破している。

 

photo
塩原れじ
photo
大庭大介
photo
粟田大輔

だから歓迎レセプションあらため「来日中止の経緯説明会」で、これも企画者のひとり、東京芸大の木幡和枝教授が話したことのほうが僕には面白かった。「芸大では学生たちが半年前からネグリ・イベントの準備をおこなってきた。ネグリを読んだことがある学生もそうでない学生も。つまり、全員がネグリという思想家やその著作に惹かれてというわけでは必ずしもなく、むしろ、ネグリという名によって引き起こされるであろう出来事の準備に夢中になっていた」(UTCP Blog)。要は、触媒としてのネグリと、その招聘だったということだ。

 

実際、東京芸大では、ネグリの講演が予定されていた時期に、例えば『ヴィヴィッド・マテリアル』と題する展覧会が開かれた(4/9まで)。名和晃平、池田剛介、大庭大介、塩原れじ、田幡浩一という5人の若手作家が、それぞれ2〜4点ほどの作品を持ち寄った小さな企画だが、キュレーターの粟田大輔は「パッションは物質的なメタモルフォーズを通じてその姿を露にする」や「生きた物質」というネグリの言葉に触発されたと言う。これらの言葉はピナ・バウシュとネクロシウスの舞台を観た直後に書かれていて、文章全体も「身体について」と題されているが(『芸術とマルチチュード』所収)、もちろん、視覚・造形美術に適用しても差し支えないだろう。小さな企画とはいえ、そこには確かにマテリアル=物質に関わる新しい感覚、あるいはその萌芽のようなものが感じられた。


photo
新宿眼科画廊のプレゼン
photo
松井茂の朗読パフォーマンス
photo
DIG&BURY

こちらはネグリとは無関係だが、同展を観たのと同じ日(3/29)に、アーティストランのスペース「KANDADA」で開かれた『ダダをこねる』というイベントにも行ってみた。新宿眼科画廊(ギャラリー)やSurvivart(アート企画運営団体)やDIG&BURY(アーティストユニット)は活動に関するプレゼンテーションを行い、福住廉(美術評論家)は批評家としての自らのスタンスを語り、松井茂(詩人)は4人の語り手を用意して自作詩の実験的な朗読を披露した。合間には美術家の藤浩志、キュレーターのロジャー・マクドナルドと小澤慶介がコメントを述べる。クラインダイサムアーキテクツ(KDA)が主催する『ぺちゃくちゃないと』に似ているが(KDA所属のデザイナーも参加していた)、場所柄もあって、かなり美術寄りの印象を受ける。KANDADAを率いる中村政人はこう語る。

 

「シンポジウムにビジュアルとパフォーマンスを入れ、議論をお客さんの感受性で行うような方向で考えていたときに『ぺちゃくちゃないと』のことを聞いて、見たことはないのですが同じようなザッピングするような企画の可能性と時代性を感じました。オルタナティブなシーンの動向をスキャンして、その活動を有機的につなげていきたいと思っています。いままで行っていたイベント『パウワウ』では伝えにくいライブ感を大事にしつつ、アジアのオルタナティブな活動家をリサーチしていきます。次回は『ゴマをする』とか『上からモノを言う』かな(笑)」

 

『芸術とマルチチュード』に収録された「トニ・ネグリとは誰か」という文章で、『<帝国>』の共著者、マイケル・ハートは以下のように記している。「ネグリのアンガージュマンに固有の特徴のひとつは、知識人たちのさまざまな企てはつねに集団的かつ協働的な活動を必要とするという彼の考えにある。概念を形成することですら、ひとつのグループ活動なのである」。上述したように、KDAやKANDADAは(おそらく)ネグリと直接の関係はない。だが彼らのような動きこそ「ネグリ的」「マルチチュード的」と呼べるのではないだろうか。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。