
2月末、3月中旬と、香港に2度旅した。主な目的はシャネルの『Mobile Art』展の取材で、詳しくは4月中旬発売の『ART iT』19号とウェブサイトをご覧いただきたい。いずれも短い滞在だったが、取材の合間に『香港・深せん城市/建築雙城雙年展』(「せん」は土偏に川)の香港会場を観て、その後、3年ぶりに香港島湾仔(ワンチャイ)地区の利東街(リートン・ストリート)を訪れ、さらに中環(セントラル)地区の嘉咸街(グラハム・ストリート)を歩いてみた。都市景観の保存と、保存に関してのアーティストや建築家の役割など、先進諸国の大都市における今日的な問題を考えさせる展覧会にして具体的な事例である。

利東街は、地元では「ウェディング・カード・ストリート」として知られる小路だ。小さな印刷所兼ショップが、戦前に建てられたベランダが特徴的な中層ビルに20〜30軒、軒を連ねていた。僕は2005年の1月に、名著『香港特別藝術区 香港アート&カルチャーガイド』の著者、中西多香さんに連れていってもらったのだが、中国らしい赤や金色を多用したカードや祝儀袋やカレンダーが、いずれも狭い店内に美しく陳列されていた。結婚の挨拶状、年賀状、名刺など、人々はこの通りを訪れ、注文するのが習わしだったという。

「軒を連ねていた」「美しく陳列されていた」と過去形で書いたのは、今回訪ねてみたら、街路の両脇がすべて更地になっていたからだ。香港の市區重建局(アーバン・リニューアル・オーソリティ)は01年、「香港都心部には築30年以上の民間建築物が9300棟あり、10年後にはその数は50%増となる」という現状認識のもと、向こう20年にわたる再開発計画を発表している。湾仔地区は対象地域に入っていて、すでに計画は進行している。利東街は、その歴史的背景ゆえに論争の的となっていたが、昨年取り壊しが決まったのだ。「ウェディング・カード・ストリート」から「ウェディング・シティ」に生まれ変わり、結婚衣装や花や菓子の店、写真スタジオなどがテナントとして入るという。一方、市區重建局は、かつての居住者や商店主にテナントとしての優先権を認めている。


皇后大道東(クイーンズ・ロード・イースト)を3ブロックほど東に歩くと、湾仔道(ワンチャイ・ロード)との角に湾仔街市(ワンチャイ・マーケット)がある。1937年に完成した3階建ての建物で、「世界にふたつ現存するバウハウス・スタイルの市場のひとつ」と言われる(ほんとかな?)。現在でも野菜、果物、肉、魚介などを商う店が入っているが、ふたつのフロアしか使われていず、最上階はがらんとしている。こちらも当初は完全に取り壊され、住宅+商業コンプレックスとなるところだったが、市區重建局と發展局(デベロップメント・ビューロー)は昨年、「歴史的な」ファサードだけは残すと発表した。

こう書くと簡単だが、もちろん経緯は単純ではなく紆余曲折がいまも続いている。『建築雙城雙年展』には「看我們的利東街/Look! This is Our Lee Tung Street!」という展示があって、その曲折が多くの写真によって示されていた。展示を行ったのはH15關注組(H15 Concern Group)。メンバーは全員、利東街の住人か、テナントだった商店主だという。H15關注組は独自の再開発プランを当局に提案し、また、地域の案内付きツアーなどの啓発活動を行っている。彼らや、彼らを支持する市民と市当局との政治的闘争が、曲折を生み出したと言ってよい。賠償金やテナントとしての優先権の獲得も、湾仔街市のファサードの存続も、この闘争あるいは運動の結果である。もちろん闘争には甘い勝利だけではなく、苦い敗北もあっただろうが、ともあれ「経済的利益よりも地域ネットワークの存続と街の記憶の保存を」という主張は、香港のアイデンティティ喪失を危惧する市民の支持を得た。

特筆すべきは、この闘争あるいは運動に、建築家やアーティストが参加しているという点だ。H15關注組の再開発プランや啓発活動に、彼ら表現者は具体的に関わっている。『建築雙城雙年展』へのH15關注組の参加も、当然その関係によるものだろう。もっとも同展には、市區重建局も「「再生」空間/R-Space」という展示物を出展している。まさに「呉越同舟」といった趣だが、それはともかく、土地が狭く、人口密度が高く、「一国二制度」以前から資本も人も集中する香港において、都市化の問題は文字通り他人事ではない。そして、香港の今日は我々すべての明日にほかならない。
2月25日付の『South China Morning Post』は「新しいプランが歴史的建造物を救う?」と題する記事を掲げた。市區重建局が提出を予定する新プランが実現すれば、中環地区の永利街(ウィン・リー・ストリート)及び士丹頓街(ストーントン・ストリート)にある「少なくとも5棟の共同住宅が修復・保存され」、1951年に建てられた必列者士街街市(ブリッジズ・ストリート・マーケット)も救われるという。詳細は知らないが、ここでも地域コミュニティと当局との間に、長い対話と交渉、そして政治的な闘争があったに違いない。不況やSARSなどの影響で白紙に戻された「西九龍文娯藝術區計劃」(「Out of Tokyo 139」参照)とは、ここが大きく違う。


久しぶりに歩いてみた嘉咸街は、日用品や食品の屋台が並び、その合間を多くの人々が忙しなく歩いていて、3年前と同様の盛況だった。現地の知人に聞くと、この「中環地区最後の路上マーケット」の命運は、もはや風前の灯火らしい。たまに訪れるだけの部外者が懐古趣味だけで物事を語る愚は慎みたいが、できればなるべくよい形で生まれ変わってほしい。部外者としてひとつだけ付言しておけば、自分が部外者ではない場所、すなわちこの街において、自分なりのやり方でではあるけれど、「地域ネットワークの存続と街の記憶の保存」に努めたいと思う。東京の建築家やアーティストら、表現者にも呼びかけたい。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。