






『六本木クロッシング2007』が開幕した翌日に、久しぶりに休日の秋葉原を歩いた。目的はAKB48でもメイドカフェでもなく、『デジタルパブリックアート国際シンポジウム』。アーティストの岩井俊雄、袁廣鳴(ユェン・ゴァンミン)、鈴木康広、キュレーターの北川フラム、リー・ウォンイルがレクチャーを行い、その後この5人に廣瀬通孝ら東京大学大学院情報理工学系研究科の教授・講師陣が加わってラウンドテーブルを囲むという、「アートと社会とテクノロジーの出会い」ともいうべきトークイベントである。メディアアーティストとキュレーター、そしてエンジニア。「デジタルパブリックアート」というテーマを議論するのにふさわしい取り合わせだ。
世界的なメディアアーティストのひとりである岩井は、パラパラマンガに始まる自らのキャリアを、メディアと技術の進歩史に重ねつつ、いつもながら見事に紹介・解説した。メディアシティソウル2006や上海ビエンナーレ2006、『Thermocline of Art. New Asian Waves』(ZKM。11/4まで)などをキュレーションしたリーは、アジアのアイデンティティに根ざしたアートの必要性を熱っぽく語った。キュレーションも行い、研究者でもある実作者、袁は、台湾におけるパブリックアートの現状を、問題点も含めて冷静に報告した。
越後妻有トリエンナーレの総合ディレクター、北川は、古今東西のさまざまなパブリックアートのありようを紹介し、自らが手がけた『ファーレ立川アート計画』を「世界はかくも多様であり、違う」ことを示すプロジェクトであったと位置づけた。会場と同じビル(秋葉原UDX)内で開かれていた『ASIAGRAPH先端技術展』に、廣瀬が率い、岩井と自らがメンバーであるチームで作品を出展していた鈴木は、「木とデジタル:テクノロジーが生み出す"新しい自然"」という展覧会テーマの成り立ちとコンセプトを解説した。
メディアアートを体験したり、それについて考えたりするときにいつも思うのは、いわゆるファインアートとの間に横たわる、絶望的と言っても過言でないほどの距離、乖離である。もちろん、フルクサスやEATを経た欧米では事情は若干異なる。国際展にメディアアートが展示されることは珍しくないし、最近ではアートフェアに特別ブースが設けられることもある。何をもって「メディアアート」と定義するかにもよるが、ナムジュン・パイクをはじめ、尊敬される作家も少なくはない。それでも、特にアート市場において、メディアアートは敬して(あるいは敬されず)遠ざけられているように思う。以前にもどこかに書いたが、2005年初頭に『ART iT』第6号でメディアアートを特集したとき、ファインアート側からの反応は皆無だった。反論や批判すらなく完全無視である。
それにはいくつもの理由が挙げられるだろう。歴史が浅い分、完成度が低い。アート史への言及が少ない、あるいはない。「もの」ではなく「体験」が主なので商品として成立しにくい、などなど。一方、上述の号に掲載したインタビューで、斯界の第一人者である藤幡正樹は「メディアアートはコンテンポラリーアートとはまったく違った流れでとらえないといけない」と述べている。デュシャンの『泉』のように「物を扱っても、それについての言説のいかんによって意味が変わることを示した」現代美術と違って、メディアアートには、写真が発明される以前に衣装のレースをすべて手で描いていた肖像画のように、「非常に高い技巧」「スキルが積層された高いメチエ」が必要だと言う。したがって、アルゴリズムこそが「決定的な部分」だというのが藤幡の主張である。その上で、メディアアートの本質は、新しいメディアを「使う」ことではなく「つくる」ことにあると結論している。




そんなことを想い出しながら議論を聞いていたら、参加者に質問したくなった。「電気を使わないメディアアートの可能性を考えたことはあるか」という問いである。電気に代わるエネルギーによる新しいメディアを「つくる」可能性を聞きたかったということもあるが、もうひとつには、デジタルパブリックアートなるものの恒久性への疑問があったからだ。電気に依存する作品は、電気が途絶えた瞬間に成り立たなくなる。常にそこにあることが要求される(あるいは漠然と期待される)パブリックアートは、外的な要因によって容易に存在が抹消され得るという不安を、観る者に抱かせてはならないのではないか。
3人の作家はそれぞれ真摯に答えてくれたが、鈴木の回答に最も「なるほど」と思わされた。「プロジェクターって太陽だと思ったことがあるんです。電気も、もとはといえば太陽の光からできていますよね」
「エネルギー問題的にはそんなことじゃ困る」など、突っ込みどころがいろいろある回答ではある。だが僕は、電気・電子技術による高度な情報環境が所与のものである時代に生まれ育った世代ならではの、新しい世界観かもしれないと感じた。質問の直前、ラウンドテーブル終盤での議論は「アジア的なアートとは?」という大仰なものだった。その答は「(欧米のように)線的ではない、循環的な時間観に基づいたもの」以外にあり得ないと思うが、そのようなアートは、今後は鈴木のような世界観と結びつきながら実現されるのだろうか。廣瀬以下、技術畑の人々にも聞いてみたかったが時間が尽きた。
それにしても贅沢なイベントである。秋葉原駅徒歩1分の新築ビルに、海外からのふたりを含むスピーカー9人を集め、和英中の同時通訳を配した無料シンポジウムの聴衆は50人弱。廣瀬によれば「ほとんどは学生」とのことだ。主催者は、こんな短いコラムには書ききれない豊かな内容を、一般に広く知らしめるべく努めてほしい。(2007.10.18)
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。