COLUMN

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Out of Tokyo

172:東京的アートとは?
小崎哲哉
Date: October 04, 2007
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『ART iT』No.17 (10月17日発売)

『ART iT』17号が校了した。この号は4周年記念号で、これを機に内容デザインともに大幅リニューアルを行った。内容面では、アーティストのインタビューや対談をぐっと増やした。エルネスト・ネト、小谷元彦、鴻池朋子、名和晃平×鬼頭健吾、東恩納裕一×宇川直宏、マイケル・リン×石上純也……。ロサンゼルスを皮切りに欧米4ヶ所を巡回する『(c)Murakami』展を控えた村上隆インタビューも収録している。デザインもロゴを含め、別の雑誌のように生まれ変わった。佐藤直樹+アジールの力業に多謝!

 

特集は、この秋に東京で開かれるふたつの展覧会と、ひとつのアート&デザインイベントを核につくっている。対談してもらった名和、鬼頭、東恩納、宇川が出展する『六本木クロッシング2007』(10.13-1.14。森美術館)、リン、石上らが参加する『SPACE FOR YOUR FUTURE』(10.27-1.20。東京都現代美術館)、そしてほかならぬ佐藤直樹がプロデューサーを務める『CET07 (Central East Tokyo 2007)』(11.23-12.2。CETエリア各所)だ。佐藤は『六本木クロッシング』のキュレーターも務め、同展のカタログや宣材のデザインも行っている。いったい、いつ寝てるんだ?(って、実は知ってるけど^^;)

 

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六本木クロッシング公式ウェブサイト

興味深いのは、この3イベントがいずれも、「領域横断」「交差」「異種交配」といったコンセプトを掲げていることだ。もちろん安易に多ジャンルの表現者を集めているわけではない(と期待したい)。『六本木クロッシング』は「個人の表現そのものに『交差』のポテンシャルを見出せる作家」をそろえたと言う(森美術館キュレーター、荒木夏実)。『SPACE FOR YOUR FUTURE』は「同一システムの中でマニエリスティックになりがちなプログラムの遊びに対して、そこを出て『in between』 にいることから生産される挑発的で触発的なクリエイションへの提案をする」(東京都現代美術館事業企画課長、長谷川祐子)。『CET』は「ジャンル化されて発展してきたデザインを、統合的な視点から考え直したい」(佐藤直樹。以上、すべて『ART iT』より)。いずれもコラボレーションというより、ひとりの表現者の中にひとつのジャンルに収まりきらない多様性を見出し、その可能性を具体化して見せたいということのようだ。さあ、果たしてうまく行くのかどうか。

 

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SPACE FOR YOUR FUTURE公式ウェブサイト

ご存じの通り、領域横断型の展覧会が各所で行われるようになって久しい。アートとは、隣接する領域を次から次へと呑み込むことによって、怪物的に、あるいは帝国主義的にその体躯・版図を膨張・拡大させてゆくシステムだから、それは不思議でもなんでもない。一方ではテクノロジーの進歩とともに、写真、映像、マンガ、音楽、デジタル表現などをキメラのように取り込み、他方では実社会におけるポストコロニアリズムの進展とともに非欧米圏の視覚・造形表現を大航海時代の貿易商のように吸収してきた。その歴史といささか屈折した形で鏡像をなすように、非欧米圏、とりわけ大文字の「アート」が存在しなかったアジア、アフリカにおいては、本家を追随する際にふた通りのやり方が存在する。ひとつは本家の歴史とルールにすべてを合わせること。もうひとつは、すべてではなく一部を合わせ、自らの伝統や歴史・現実的背景をそこに盛り込むこと。そこで常に起こるのが、作品の価値をアート史への参照の有無をもって測るべきか否かという論争だ。

 

この論争においては、前提として考えるべき点がひとつある。アプロプリエーションほど目に見えるものでなく、意図的な「参照」が認められない場合、あるいは当人が意図していない場合、先行作品の「影響」をどう見るか。「参照」はつくり手が先人や歴史に対して行う、という方向性を持つが、「影響」は逆のベクトルを持つ。しかもそれは、環境全体に及ぼされていて、当人(後世の表現者)に意識されていない場合があり得る。視覚造形美術ではないが、ある舞台芸術で、3人の魔女とおぼしき登場人物が鍋を煮立てはじめたので「『マクベス』の引用?」と聞いたところ、「なんですか、それ?」と無邪気に聞き返された経験が僕にはある。

 

観る(聴く/鑑賞する)立場にいる者として答えれば、すべては作品の質に依る。それが単なる模倣や低水準の反復にしか見えないとすれば、意図的であれ無意識であれ、あるいはパクリであれ、語るに(観るに/聴くに)値しない。技術が低いか、不勉強か、志が低いかのいずれかだと判断して、その場を去ればいい。つくる立場の者へ向けて、これも観る(聴く/鑑賞する)立場にいる者から言えるのは「もっと勉強しろよ」ということくらいだ。そして、できれば批判精神も併せ持ってほしいと願う。社会に対する批判でも、美術という制度への批判でも、他者への批判でも、自己批判でもかまわない。政治的な批判でもいいけれど、別に狭い意味での政治批判である必要はない。

 

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津村耕佑

最近観た表現の中では、『THIS PLAY!』(9.11-24。21_21)に出展された津村耕佑と東恩納裕一の協働作品が際立っていた。図らずも、ファッションデザイナーとファインアーティストのコラボレーションである。津村はショーウィンドーなどに展示されるマネキンを全裸もしくは半裸で、しかも外部の視線を排除するかのように円形に並べ、東恩納はお得意の蛍光灯を用いたオブジェで、そのマネキンの首をつなぎ合わせてみせた。頭上にあるのではないから、天使の輪ではなく犬か奴隷をつなぎ止める鎖に見立てたのだろう。会田誠ではないが「みんな、一緒」という言葉も想い起こす。

 

オプアートとポップアートへの参照があり、機能と装飾、すなわちデザインへの疑問が提示され、ファッション産業や消費社会への批判も見られる。作品の完成度は高く、視覚的なインパクトも強い。津村がキュレーションした展覧会全体は必ずしも成功しているとは思えなかったが、いまの東京を体現する表現として、この作品は収穫だった。(2007.10.4)

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。