

大阪らしい強烈な残暑の中、『NAMURA ART MEETING '04 - '34』vol.02に出かけてきた(9/2)。会場は、大阪市住之江区の臨海地区にある巨大な名村造船所跡地。イベント名に含まれる数字は年号で、借地権の長さから名付けられたという。vol.00が開催された2004年から30年続けようというのだから、この国にしては志が高い。
僕が訪れたのは2日間のイベントの2日目で、お目当ては『高橋悠治×浅田彰 反システム音楽論——ダイアローグとプレイ』だった。どこか南の国の民族衣装のような服を着た音楽家がピアノに向かう。批評家はその脇に座り、演奏の間に短い会話を挟むという趣向である。1曲目はエリック・サティの「グノシエンヌ第5番」で、浅田によれば、ひと月半ほど前に亡くなった三絃奏者の高田和子を始め、先に他界した多くの音楽的盟友のための「明るい追悼」曲であるとのことだった。

ほかにジョン・ケージの「チェス・ピースィズ」や、クルターグ・ジェルジの『遊び』から数曲。だが圧巻は、バッハの「パルティータ第6番」をもとに高橋が作曲した「bachiana afroasiatica」と原曲の弾きくらべだった。「アフロアジア的バッハ」は、いかにも現代音楽現代音楽したピアノソロである。だがその中に、断片化された原曲の旋律が巧みに、そして意想外なかたちで組み込まれている。一時期、病に倒れていた音楽家は、肩に力を入れずに淡々と演奏した。その外連味のなさが、本歌と本歌取りの違いを際立たせていた。
高橋と浅田も説明していたが、パルティータなどバロック時代の組曲は、さまざまな舞曲的器楽曲を組み合わせてつくられている。そして、アルマンドがドイツ、ジーグが英国やアイルランド、サラバンドが中米のスペイン植民地というように、各々が地理的な起源を有している。そこにはイスラムなど、非キリスト教的影響がうかがわれることもある。バッハのようにヨーロッパの中心に位置するとされる作曲家でさえ、非ヨーロッパ的な音楽的資源を自作に引用・利用しているわけだ。バッハの時代の作曲家は、自らの創作と表現を国境の外へ開いていた。

1991年に行われた高橋との対談で、武満徹はこう述べている。「最近ある評論家が書いた短い文章を読んでいたら、『日本の創作にも素晴らしいものができてきて、国際的に通用するものがある。しかしそれは、やはりヨーロッパから入ってきたものの今までの続きに過ぎなくて、文化的に言えば能や歌舞伎ほどユニークではない。これから日本独自のものは、感性を一種鎖国状態において、そこではじめて生まれてくるかもしれない』という(笑)。どうしてそんなふうにまでして、日本的な芸術を作らなければいけないのか?」(『MUSIC TODAY(今日の音楽)』12所収「特別対談 音楽の現在形」)
武満の指摘はもっともだが、「bachiana afroasiatica」は、その慨嘆をはるかに超えて建設的だ。高橋の試みは(「asiatica」であったとしても)もちろん民族主義的あるいは地域主義的なものではない。バッハと「アフロアジア」を対比させ、接続し、そして同時に双方を裏切っている。「裏切って」が言い過ぎだとすれば、どの時代、どの国でも見られる異国趣味の導入を二重にひねって利用している。ウェブサイト『水牛』所収の『水牛のように』(07年6月号)に高橋は以下のように書いているが、生まれた作品はこのポスト植民地主義的な意図をも超えた普遍性を備えているのではないか。
「500年も世界にこだました軍隊の行進 その後から 賛美歌の合唱 そんな無残な響きを洗い流してくれる 囲い込まれた島々にまき散らした種から 黒い大西洋を渡って運ばれた リズム 密やかな両手が撚り合わせる アフロ・アジアの書 モザイクからアラベスクへ アラベスクから文字の模様へ」(「アフロ・アジア的」)
その4日後、すなわち本日、台風9号の上陸が迫る東京で、ケージ作『ユーロペラ5』の日本初演があった(9/6。サントリーホール小ホール)。死の前年(1991年)に書かれた最後の「ポータブルオペラ」で、ピアニスト、ふたりの歌手、蓄音機奏者、照明担当、音響担当の6人が登壇して上演される。ラジオから低ボリュームのジャズが流れる中、歌手がアカペラで『カルメン』(ビゼー)の「セギディーリャ」を歌い出す。その後は、ケージお得意のチャンスオペレーション、すなわち偶然により、互いに無関係なアリアなどの音楽が次々に、あるときは重なって、歌われ、演奏され、蓄音機から流される。舞台にはテレビ受像器もあって、リアルタイムに放映されているニュースが迫り来る台風の情報を告げる。作曲家の指示通り、きっかり1時間後にすべての光と音が唐突に消されて上演は終了した。
Europe’s OperaでありYour Operaでもあるこの作品に、演出を担当した足立智美は「日本の舞台芸術史をかぶせようとし」たという(パンフレット『サマーフェスティバル20周年記念 MUSIC TODAY 21』所収「演出ノート」)。なるほど、時々自動の朝比奈尚行が奏でる蓄音機からは、歌舞伎の下座音楽が聞こえもした。岡崎乾二郎によるカラフルな衣裳を除くと比較的地味な印象を受ける上演において、内外の観客/聴衆には「受ける」仕掛けかもしれない。言うまでもなくこれは、上述した武満の批判する「日本的な芸術」志向とは無関係だろう(と思いたい)。足立はぬかりなく「『ヨーロッパのオペラ』というタイトルにはアメリカ人であるケージの距離感が反映されている。(中略)私たちは日本語の『オペラ』の語に意識的にならざるをえない。あるいはアメリカ人が、ヨーロッパ人が考える、日本の『オペラ』も意識しよう。ではこの私たちとは誰のことだろうか?」と記している。
それはともかく、アート雑誌を編集している身からすると、音楽は現代美術よりもはるかに自由だと思う。何よりも、ヨーロッパが単一の起源/中心ではなく(なくなり)、多数の起源があって中心などない(なくなった)ことがすばらしい。音楽は世界芸術である(となった)。だがアートは、単に大きなだけの、ローカルな表現行為に過ぎないのではないだろうか。(2007.9.6)
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。