

「ドクメンタ・マガジンプロジェクト」(以下「DM」)に招聘され、カッセルで開催されたミーティングに出かけてきた(7/24-28)。100日という会期中に、DMに参加する90以上の雑誌関係者を招いて毎週開かれるもので、今回は『A Prior』(ベルギー、ただしメインプレゼンターはリトアニア)、『Frakcija』(クロアチア)、『LTTR』(米国)、『Maska』(スロヴェニア)、『Performance Research』(英国)、『Valdez』(コロンビア/ドイツ)、『Walking Theory』(セルビア)、そして『ART iT』(日本)の編集者が公開レクチャーや非公開討議を行った。ご覧の通り、東欧(バルカン)勢が多い。そして、理論的な舞台芸術系の雑誌が中心だった。僕は高嶺格の『木村さん』『もっとダーウィン』『アロマロア エロゲロエ』、彼が美術を担当した寺田みさこの『愛音』などのDVDを見せ、なかなかよい反響を得た。
今回のドクメンタは、「近代は我々にとって古代か」「剥き出しの生とは何か」「何をなすべきか(教育)」を3つのライトモチーフとしている。隠されている(あるいは顕在している)主張は「反グローバリゼーション」「反市場至上主義」「ヒエラルキーの打破」だ。ゲルハルト・リヒターや故アグネス・マーティンなどわずかの例外を除けば、アート界のスーパースターの名はほとんどない。バーゼルなどのアートフェアや、ヴェネツィアなどの国際展で見られるような業界注目の新進作家も見あたらない。そして展示は非常にぶっきらぼうである。作品を理解するための説明はほとんどなく、キャプションには作家の国籍すら記されていない。だが芸術監督のロゲール・M・ビュルゲルとキュレーターのルト・ノアック(ビュルゲルの妻)は、「史上最悪の美術展」(リチャード・ドーメント/『デイリー・テレグラフ』紙07/6/19)というような市場/ギャラリー寄りの酷評をまったく意に介さないだろう。開幕前に『アート・レヴュー』誌(07年4月号)が行ったインタビューで、ふたりは「我々はアーティストのためにこの展覧会をつくっている」「自らの体験を意味あるものにするのは観客自身の務めだ」と述べている。最初から確信犯なのだ。

かくして、会場のひとつドクメンタ・ハレには、何らの注釈もなくキリンの剥製が展示される。ウィルヘルムシェーヘ城には、葛飾北斎の『万職図考』(1835)が、これも何らの説明なくヨーロッパ近世の絵画と並べられる。後で図録を精読すれば、剥製はパレスチナ西岸の動物園にいたキリンで、イスラエルが侵攻した際にパニックに陥って死んだものだとわかる。北斎についてはよくわからないが、機能性を超越したデザインのアートへの接近が示唆されているのかもしれない。ともあれ全体を通してみれば、「文化の多様性の称揚」「植民地主義およびポスト植民地主義批判」「身体性の重視」「フェミニズム支持」といった、ある意味で「えー、いまさら?」的な諸主題が浮かび上がらなくもない。とはいえ、それらは明文化されていないため、推測が正しいかどうかは誰も確認できない。



興味深いのは非欧米、いや、非西欧地域への目配りである。チェールス・ミアウェザーのシドニー・ビエンナーレ2006と同様に、西欧と米国の参加作家は少なく、アジア、アフリカ、中東、東欧、南米の作家が多数選ばれている。だが、その選択基準がさっぱりわからないのが特徴的だ。1001人の中国人をカッセルに送り込み、短期滞在させるというむちゃくちゃなプランを通した艾未未(アイ・ウェイウェイ/中国)はいいとして、日本からは青木稜子と具体の故・田中敦子だけ。インドのアトゥル・ドディヤや、マレーシア/オーストラリアのシムリン・ギルらも好い作品を出していたが、「なぜ彼らが? そしてなぜこの作品が?」という理由が明示されていない。欧米のプレスも、非欧米作家への無知が目立った。艾を「中国におけるウォーホル的著名人」と表現した『ニューヨーク・タイムズ』のホーランド・コッターら少数の例外以外は、そもそも基礎知識すらないのではないか。
結局は「ヨーロッパ」がキーワードなのだと思う。ともに1960年代生まれのビュルゲルとノアックは、68年5月革命への共感を隠そうとしていない。価値の紊乱と破壊、先行世代の否定こそが第一命題で、だからこそ市場と縁のない無名の作家が選ばれ、ヴェネツィアのような祝祭性は排除され、展示は愛想がなく、線的なわかりやすさではなくランダムなわかりにくさがあえて導入される。ドクメンタのように成立当初から政治的、革新的であろうとした国際展において、それは別段非難すべきことではないかもしれない。だが、5月革命が結局は同時代の文化大革命と同志的関係を結べなかったのと同様、今回のドクメンタは「非欧米」を道具として用いこそすれ、深い共感など覚えてはいないと僕は感じた。反グローバリゼーションを標榜するために、とりあえず「非欧米」に声をかけただけではないか。EUメンバー、あるいはメンバー候補としての東欧は同志だが、アジア、アフリカ、中東、南米はそうではない。欧米のプレスにしても、背後にある感覚は同様ではないか。

DMでも同じではないだろうか。統括責任者、ゲオルク・シェルハマーが選んだのは、欧米圏ではインディペンデント誌が主で、『Art in America』『Artforum』『Flash Art』『Frieze』などのメジャー誌は意図的に外されている。そして造形美術の雑誌ばかりではなく、上述したような舞台芸術誌、さらには思想誌、文芸誌、『Le Monde diplomatique』のような硬派のジャーナリズム誌さえも含まれている。一方、非欧米圏では、選択基準が必ずしも明確ではない(例えば『ART iT』は、他の多くのメディアと異なり、左翼雑誌でも理論誌でもオピニオン誌でもない)。「我々は非欧米圏にも目配りをしている」という文化相対主義的なエクスキューズ以外の何ものでない、と書いたら言いすぎだろうか。

10年前、カトリーヌ・ダヴィッドがキュレーションしたドクメンタ10において、目玉のひとつは各国の識者による「100日間連続レクチャー」だった。初日に講演を行ったのはいまは亡きエドワード・サイードである。サイードの主著『オリエンタリズム』は、西欧が歴史的に抱いてきた「東方」、特にアラブ・イスラム世界への偏見を批判した大著だが、そこで問題とされる「東方」とはすなわち「非西欧」にほかならない。ドクメンタおよびDMにあって、主催者がサイード的なエスノセントリズム批判を咀嚼・継承しているようには僕には思えなかった。逆は「非西欧」たる我々にも当てはまり得る。異文化理解や異文化交流が一筋縄ではいかないことを、痛いほど感じた5日間だった。(2007.8.2)
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。