COLUMN

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Out of Tokyo

167:キノコと花火と夏の旅
小崎哲哉
Date: July 19, 2007

創作童話みたいなタイトルだけれど、そうではない。先週、東京の西と東で観たパフォーマンスと展覧会のことだ。「キノコ」はもちろん、珍しいキノコ舞踊団の新作公演『あなたの寝顔をなでてみる。』(7/10-16。吉祥寺シアター)。「花火」は宮永愛子の個展(6/16-7/15。すみだリバーサイドホール・ギャラリー&アサヒビール本社ビル)。そして「夏の旅」は、向井山朋子のコンサート(7/13、14。門仲天井ホール)。三者には何の関係もないが、テーマ(のひとつ)が「日常と非日常の往還」であるという点に共通性があると僕は感じた。

 

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撮影:片岡陽太(3点すべて)

キノコはいつも、ダンスという非日常的な世界に、いかに観客を自然に巻き込んでゆくかに腐心している。ダンサーたちの普段着に見える衣裳や、ポップでなじみ深い楽曲を必ず加える選曲などに、その思いは如実に表れている。観客を煽って一緒に踊らせるという荒技もときおり行うが、とりわけ特徴的なのはおしゃべりを挟み込むことだ。今回はそれが、ダンサーがふたりずつ踊るシーンで印象的に用いられていた。「この間テレビで観たんだけどさ……」的な話が、かなりハードな振付とともに1シーンまるごと交わされる。シリアスなダンスとゆるい会話のギャップに、客席には笑いの渦が起こる。

 

これを、チェルフィッチュにおける「身体的所作と台詞の乖離」のような演劇的実験と比べることもできるだろう。でもそれよりは、「日常と非日常のユーモラスな戯れ」と受け止めるほうが、楽しいし、刺激的だと思う。何よりも、相当に練習を重ねなければ、あんな風に息を切らさずに話などできない。非日常の中に日常を持ち込むために、彼女たちはきわめて非日常的な訓練を積み、そして一見日常的な、実は高度に非日常的なシーンを生み出すことに成功したのだ。客席の笑いの背後には、無意識にせよ感嘆の思いが潜んでいる。

 

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宮永愛子の『岸に上がった花火』は、花火大会で知られる浅草と隅田川という土地に材を得たサイトスペシフィックな作品展だ。ナフタリンを用いてオブジェを作り、それが時の経過とともに気化して消失するに任せる宮永作品は、文字通り儚く、いつも生と死に思いを馳せさせる。今回はそれに加え、隅田川の川底からくみ出した水を糸に染みこませ、塩分を結晶させて繊細なインスタレーションをつくった。

 

塩は湿気に敏感だから、日によって、湿度に応じて形を変える。会期は梅雨どきに重なり、大きな台風まで来たから、糸の表面にできた玉のような滴は、閉展に向けてどんどん太っていったそうだ。一方で、ナフタリンの靴やはさみや船の帆は、逆に少しずつ小さくなってゆく。僕が訪れたのは最終日の2日前で、はさみなどは、ほとんど痕跡のようになって消えかけていた。さまざまな含意を喚起する白という色が、一期一会という思いを強くする。素材や主題や造形物自体は日常的なものであり、それがスイカに振りかけて甘みを引き出す塩のように、作品と展覧会全体に効果的に働きかけていたように思う。

 

同様のことは向井山朋子の『夏の旅〜シューベルトとまちの音〜』にも言える。古典から現代音楽までを、大胆にして奔放な解釈で弾きこなすピアニストは、今回はシューベルトの『即興曲』を中心に演目を組んだ。まず注目すべきは、会場がビルの8階にあるホールだということ。そして、窓をカーテンなどで覆うことなく、ガラス越しに都市の風景を聴衆に見させたこと。つまり演奏者と聴衆は、音響的には密室にいながら、景観的には常に街のただ中にいることになる。目を閉じたり、音楽に集中したりすれば風景は目に入らなくなるが、それはもちろん、風景が消失したということではない。

 

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タイトルにあるように、「まちの音」を組み込んでいる点にも意を払いたい。街のノイズをサンプリングして楽音と競わせるという手法は、格別新しいものではない。だが、街で聞き慣れていて、ほとんど意識しないような音が優雅な旋律を遮ると、楽音に酔っていた耳は瞬時にして日常、あるいは現実に引き戻される。その遮断、あるいは衝突は、ゴダール映画のように暴力的なもので、睡眠中に無理やり覚醒される感じにも近い。覚醒して目を窓外に転じると、開演時にはオレンジ色だった空はいまや黒々と沈み込み、高速道路を走る車のヘッドライトが目を貫く。音楽が、芸術が、そして僕たちの生活自体が、優れて都市的なものであるという当たり前の事実が、視覚的、聴覚的に素直に納得される。

 

エリック・サティは20世紀初頭に、奏でられながらも日常を妨げない「家具の音楽」を提唱した。キノコや宮永や向井山が試みているのは、舞台や展覧会場やコンサートホールという非日常的空間に日常をあえて持ち込み、それによって表現行為の非日常性を際立たせるという営為である。「家具(として)の音楽」の方向性を逆転させ、「音楽としての家具」「表現行為の一部としての日常」を実現しているというのは言い過ぎだろうか。ともあれ、「喜怒哀楽」の「怒り」以外、あらゆる感情に快く作用した3つの体験だった。(2007.7.19)

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。