

いったんヨーロッパから戻り、日本での所用を済ませてから、ヴェネツィア・ビエンナーレの内覧に行ってきた。以前にも書いたとおり、今年は3大国際展が同年開催する10年に一度の年回りで、アート業界の人々は欧州大旅行を繰り広げる。開会直後にも国内で用事があったのでドクメンタやミュンスターはあきらめ、木曜から日曜まで、丸4日間をヴェネツィアで過ごして帰ってきた。あれだけの巨大イベントだから、すべてを観ることはもとより叶わないけれど、限られた期間内に観るべきものはひととおり観たように思う。


他のジャーナリストも書いていたが(例えば『ニューヨーク・タイムズ』『ヘラルド・トリビューン』のキャロル・ヴォーゲル)、今年のヴェネツィアには「死」のイメージが溢れている。総合芸術監督のロバート・ストーがキュレーションしたイタリア・パビリオンでのグループ展で、ソフィ・カルは死に行く実母の映像を展示した。まさに亡くなった当日、ビエンナーレへの参加要請の連絡があったという。アルセナーレでの展示には楊振中(ヤン・ジェンジョン)が代表作の『I Will Die』を出展していた。各国のさまざまな都市で、市井の人々に「私は死にます」と発話させて、それを撮影したビデオ作品だ。フランソワ・ピノーが買ったパラッツォ・グラッシの外には、富豪が買ったスボード・グプタのどくろ彫刻が鎮座していた。どくろといえば英国の問題児、ダミアン・ハーストは、 パラッツォ・ペサロ・パパファーヴァでのプチ回顧展で、死の象徴を大盤振る舞いしていた。

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その数倍の規模で、さらに直接的に死を表象していたのがヤン・ファーブルだ。パラッツォ・ベンソンでの個展には、自作ダンスの衣装や舞台美術のインスタレーションのほかに、死んだ、もしくは死に瀕している本人(のレプリカ)が出まくり。壁に向かって倒れ込み、足下に血の海を作っていたり、画鋲と釘を全身に刺して(というより画鋲と釘で全身を作って?)天井から首を吊っていたり……。圧巻は黒い墓石を敷き詰めたインスタレーションで、中央に本人(の人形)が立っている。散乱する墓碑に死者の名はなく、「ゾウムシ」などのフランドル語の昆虫名と、生没年のみが刻まれている。種明かしは脇の壁に貼ってあって、ワシリー・カンディンスキー、アルノルト・シェーンベルク、サミュエル・ベケット、ミシェル・フーコーら20世紀の芸術家や知識人の名に混ざり、本人の名も記されていた。本人の墓碑銘には「カブトムシ 1958-2007」と刻んであった。
ビル・ヴィオラのサン・ギャロ教会での新作展示『Ocean Without A Shore(岸辺なき大洋)』は、例によってマルチスクリーンのビデオインスタレーションだ。本来は祭壇である場所に、そこにある(であろう)聖人像とほぼ同じサイズのモニターを3台設置し、ほかに明かりがまったくない中で別々のループ映像を流す。最初は薄暗い画面奥に小さな人物がひとり見えている。老若男女さまざまだが、ゆっくりとカメラ方向に歩いてくる。画面の手前に、水が上方から瀧のように降り注ぐ地点があり、そこまでがモノクロ。人物がこの地点を越え、ずぶ濡れになった瞬間に一気にカラーに転じる。
全身を水に浸し、大きく深呼吸する老婦人がいる。腕の先だけを水に差し入れ、そのまま戻ってしまう若い女性がいる。誰であれ、最後には必ず水の向こう側に戻り、したがってモノクロの映像に戻って、最初にいた地点まで帰っていって消失する。1996年作品『Crossing(クロッシング)』とよく似た内容だが、そこが決定的に違う。題名に暗示されているとおり、彼岸と此岸の往還をテーマにした、そしてもちろん教会という展示の場所を強く意識した、内省的にして宗教的なサイトスペシフィック作品だ。

パラッツォ・フォルトゥニーでは『Artempo』と題するグループ展が開かれていた。「時代が芸術になる場所」という副題が付いている。パブロ・ピカソ、フランシス・ベーコン、ルチオ・フォンタナ、ハンス・ベルメールといった物故作家、ルイーズ・ブルジョワ、マリーナ・アブラモヴィッチ、アニッシュ・カプーア、河原温、ジェームズ・タレル、宮島達男といった現役作家の作品が混在している。それだけならときどき見られる企画だが、特徴的なのは、美術館でもあるフォルトゥニーの収蔵品も並列されている点だ。ワーグナーの全体芸術に傾倒し、舞台美術や写真を手がけたマリアーノ・フォルトゥニー自身の作品と、彼が収集した古代から中世を経て現代に至る一風変わった美術品や工芸品の数々。暗い館内は、時が止まったまま外界から隔絶され、観客ごと封じ込められているかのようで、ゴシック的な死の匂いをたっぷりとはらんだ、アートの幽霊屋敷とでも呼びたくなる展示だった。キュレーターは、伝説的な『Magiciens de la Terre(大地の魔術師展)』や『アフリカ・リミックス』を手がけたジャン=ユベール・マルタンら4人である。
言うまでもないことだが、「死」は現代美術のみならず、古今を通じて芸術全般の重要なモチーフである。生の中にすでに死がインプットされている以上、その気になれば明示されていない作品であっても、ここかしこに死の徴は見つけられるだろう。だが、現代消費社会にあっては、この哲学的命題は忌避される傾向にある。展示を観終えた後でもまだ明るい地中海の空を見ながら(もちろん、きりりと冷たいプロセッコを飲みながら)、死と表現行為についてしばし考えをめぐらせた。(2007.6.21)
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。