COLUMN

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Out of Tokyo

156:ドクメンタ・マガジンプロジェクト
小崎哲哉
Date: February 10, 2007
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「ヴェネツィア・ビエンナーレ」WEBサイト

昨年はアジア=パシフィック地域において、ビエンナーレやトリエンナーレなど現代美術の国際展が多数開催されたが、今年2007年は、ヨーロッパのアートシーンが大変なことになる。ヴェネツィア・ビエンナーレ(隔年開催)、ドクメンタ(5年に1度)、ミュンスター彫刻プロジェクト(10年に1度)という3大国際展が一挙に開幕するのだ。さらに、現代美術のフェアとしては最も格が高いとされるアート・バーゼル(毎年開催)も同時期に開かれる。6月はアートピープルが、ヴェネツィア〜バーゼル〜カッセル〜ミュンスターと大移動する月となるだろう。

 

僕はRTのほかに、『ART iT』というアジア=パシフィック地域の現代アートシーンを紹介する雑誌の編集長も務めている。その立場からするといちばん興味深いのはドクメンタである。今回のドクメンタ12は、その名も「ドクメンタ・マガジンプロジェクト」という計画を進めていて、世界各国およそ90のアートメディアに協力を要請しているからだ。各メディアはドクメンタ12が提示する3つのキートピックのいずれかに関連する記事をつくり、その記事はすべてが英語とドイツ語に翻訳されて、最初は公式ウェブサイトにおいて、次いでアンソロジー的な書籍というかたちで発表・刊行される。アート界最強ともいうべき影響力を持つ国際展の公式メディアに記事が掲載されるのだから、協力を断るメディアはごく少数だろう。したがってドクメンタは、ほぼ自動的に各国において宣伝されることになる。誰が考えたか知らないが、巧妙な作戦であり、しかし意義深い計画であると思う。

 

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「ドクメンタ12」WEBサイト

『ART iT』も公式に招かれたので、4月中旬発売号で特別記事をつくることにした。着目したのは、「近代性は我々にとって古代性か」「剥き出しの生とは何か」「何がなされるべきか(教育)」という3つのトピックのうち、最初の近代性に関するものだ。ドクメンタ12のアーティスティックディレクター、ロゲール・ビュルゲルは2005年12月に、以下のように記している。「近代性あるいは近代性の宿命が現代美術作家に深遠なる影響を及ぼしていることは紛れもなく明白である。この誘因力の一部は、近代性が死んだか否かを真に知っている者が誰もいないという事実に起因しているのではないだろうか」

 

言わんとするところは明快だし、歴史性に意識的な者であれば、アーティストであろうとなかろうとこのトピックに賛同するだろう。だが我々は、近代性が無条件に、いわば所与のものとして前提とされているところに違和感を覚えた。例えば、アジアのほとんどの国は「近代」と呼ぶべき時代を(「欠いた」とは言わないまでも)きわめて遅い時期にしか自国に取り入れていない。アジアにおいて初めて「近代」が導入された日本ですら、欧米の近代化に遅れること半世紀。その他の諸国は、西欧列強及び大日本帝国の植民地主義によって、さらに半世紀以上後れを取っている。

 

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「ミュンスター彫刻プロジェクト」WEBサイト

そのことは美術館に行かずとも、各国の都市風景やインテリアショップなどを見れば一目瞭然だ。自国の建築家やデザイナーによる近代建築やプロダクツを多数持つ国は、アジアにおいてはごく少数であり、ドイツ人やフランス人や日本人が建てた建物ばかりが目立っている。文学においてもしかり。中国においては、魯迅に代表される近代文学者は、日本経由で西洋の情報を輸入していた。「近代性は我々にとって古代性か」という設問は、非常に西洋中心主義的(近代主義的?)なものではないだろうか。

 

こうした問題意識に基づいて、日中韓のアートや建築の専門家による提案を掲載しようと思っている。歴史の検証を伴うので、もちろん雑誌記事1本だけでは足りるはずもない遠大な作業となる。記事は初めの一歩に過ぎず、連続シンポジウムなど、当のドクメンタを巻き込んだ長期のプロジェクトにできないかと提案してみるつもりだ。非西洋圏からの逆提案を、アートと近代性の本場がどう受け止めてくれるか、楽しみではある。

 

もうひとつ気になったのは、3つめの「何がなされるべきか(教育)」である。前々回のこのコラムに書いたトーキョーワンダーサイトの展覧会企画を審査していて、他の審査員とともに嘆かわしく思ったのは、応募してきた若いキュレーター及びキュレーター志願者に、美術史的知識が大きく欠落していることだった。正統派と位置づけるべき美術は、そうである以上は先人の業績を知り、まずはそこに依拠しなくてはならない。その上でさらに、批判的かつ建設的に継承と発展がなされるのが理想だが、それが叶わないとしても参照事例として過去を学ぶのは大前提だ。それはまさしく、教育の問題と深く関わっている。

 

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ナディン・ゴーディマ著
『 いつか月曜日に、きっと』

Out of Tokyo 150」に書いたことと関連するが、僕は「教育」とは、広義にはメディアや経済状況を含む社会環境に関わるものだと思っている。学ぶ者の自助努力はもちろん必要だが、その努力に実を結ばせるためのインフラづくりはできるかぎり行うべきだろう。実は上述のドクメンタ・マガジンプロジェクトに招かれて、今月末にヨハネスブルグで開かれる「教育」をめぐる非公式の会議に参加することになっている。その席で「インフラづくり」の具体案を提案するつもりである。南アフリカを含むアフリカ全土は、アジアと同様に西欧の植民地主義の犠牲となり、近代化が著しく遅れた地域だ。これまで不案内だった事情を把握するために、ナディン・ゴーディマなどを読みはじめている。(2007.2.9)

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。