COLUMN

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Out of Tokyo

149:ソウルと釜山
小崎哲哉
Date: October 26, 2006

メディアシティ・ソウルと釜山ビエンナーレに招かれ、「北」の核実験で大騒ぎのさなかに韓国に行ってきた。先日の光州と合わせ、今年は韓国の3大ビエンナーレをすべて観たことになる。考えさせられることは例によって多々あった。主として内容よりも運営に関わることであり、そこにこそアジアにおける国際展の弱点が露呈しているように思った。

 

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ソウル市立美術館。キービジュアルは渡辺豪

まずはメディアシティ・ソウル(12/10まで)。ソウル市立美術館3フロアを使った会場に入り、すぐに気がつくのは1階の半分ほどがモノクロームに近い作品に占められているということだ。幼形成熟のアルビノの肖像とも言うべき渡辺豪の『face "portrait"』、急激に変貌する都市を水墨画のタッチで描いた陳劭雄(チェン・シャオション)のビデオ『Ink City』、400体もの裸体CGキャラクターが天空を駆け抜ける繆暁春(ミャオ・シャオチュン)の『The Last Judgment in Cyberspace』、おもちゃの飛行機や砂漠を歩むらくだの影が室内を移動するさわひらきのビデオ『Dwelling』『Trail』など。その後はカラーの作品が増えてくるのだが、導入部にモノクローム(というより「白」)が勝った作品を配したのは、「Dual Realities(二重の現実)」をテーマに掲げた企画者たちの意図を物語っている。現代とはリアルの中にバーチュアルが含み込まれた時代であり、その二重の事態を象徴するのが夢ともうつつともつかない乳色の「白」なのだ。「浮遊」や「落下」に関わるイメージも少なからず見受けられたが、ここは批評の場ではないから深追いしない。

 

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マノヴィッチのレクチャー
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レフ・マノヴィッチ

中盤以降は息切れしているようにも思ったが、全般的な印象は悪くなかった。予算を節約するためだろうが映像作品が多く、それがゆえに展示が一貫しているように感じられたのだ。だが運営面では、問題が少なからずあった。映像の上にペインティングを施した劉鼎(リュー・ディン)の『Tracing the Wind and the Shadows』は観客によって破損され、一部のインタラクティブ作品はきちんと作動せず、マチュー・ブリアンに至っては設営の際に必要な材料が揃っていなかったために怒って帰国してしまったという。僕がびっくりしたのは、梨花女子大で行われたレフ・マノヴィッチの講演に、関係者を含めてわずか30人ほどの聴衆しかいなかったことだ。マノヴィッチは今回のキュレーターのひとりで、メディアアート理論の第一人者である。翌日に会ったアーティストのカップルは、「知らなかった」と言って残念がっていた。なぜ十分な宣伝告知をしなかったのだろう。

 

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淀川テクニックの『ナットンチヌ』

一方、今年の釜山のテーマは「二都物語:釜山-ソウル/ソウル-釜山」である(シーアートフェスティバルを含めた全体のテーマは「Everywhere」11/25まで)。一国の機能が首都に集中している現状を地球規模に敷衍しようという野心的な企画で、広州の電球工場に取材した曹斐(ツァオ・フェイ)のビデオインスタレーション『SIEMENS Art Project-What are you doing here』、マイノリティが支える資本主義の社会・産業構造をユーモラスに皮肉ったミカ・ロッテンバーグのビデオ『Tropical Breeze』、釜山市内を流れるナットン川で拾い集めたごみでつくった淀川テクニックの巨大な魚『ナットンチヌ』など、主題と表現が明快な作品はすばらしかった。とはいえ、「二都物語」というテーマは十全に表現されてはいないと僕は感じた。また前回同様、設営・展示の質も決して高いとは言えないように見えた。

 

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「書斎」
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「リビング」
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「浴室」

案外拾い物だったのは、海岸沿いのSKパビリオンで開かれていたシーアートフェスティバルの『Living Furniture』展である(11/25まで)。ディレクターのリュウ・ビャンハクは「わずか100年前までは、アートは我々の日々の生活とともに息づいていた。ところが20世紀初頭以来、アートは『芸術のための芸術』というイデオロギーによってこの生活への結びつきを失ってしまった」と宣言し、3人のコミッショナー、キム・ジョンヨン、港千尋、陸蓉之(ヴィクトリア・ルー)とともに、会場全体をひとつの家に見立て、「子供部屋」「キッチン」「リビング」「浴室」などに100点あまりの作品を家具のように配している。全体の印象は、趣味のよいモデルルームだ。艾未未(アイ・ウェイウェイ)、イ・ドンギ、イ・スギョン、キム・キラ、東恩納裕一、三田村光土里ら、なかなか好い作家が参加している。

 

僕はリュウの宣言は単純に過ぎると思うし、こんな部屋に住みたいとも思わないけれど、展示法は斬新である。ホテルの室内で行われる展覧会やアートフェアはあるが、グループショーとしてはこちらのほうが筋が通っている。知人のギャラリストが「非常にコンサバなビエンナーレの展示に比べると、発想が新鮮で面白く映った」というメールをくれたけれど、こうした形で生活の中にアートを持ち込ませようというのは、ギャラリストならずともうれしい提案かもしれない。アートとインテリア、あるいはアートとデザインの関係を考えさせるという意味で、多くの人に議論してもらいたい宣言であり展示である。

 

帰国する直前に、メディアシティ・ソウルのアーティスティックディレクターで上海ビエンナーレのキュレーターのひとりでもあるリー・ウォンイルに、盗作疑惑が持ち上がった。上海の公式ガイドに書いた文章が、オランダの批評家が2005年に釜山で行った講演会の原稿の引き写しだったのだという。リーは「中国語から英語に翻訳する際に、翻訳家が原典表記の注を省いてしまった」と釈明しているが、批評家は納得していない。

 

この件も含め、アジアの国際展は問題だらけである。テーマや作家選択に関しては、優れているとは言えないにせよ、かなりのレベルに達してはいる。だが設営・展示、広報など、運営に関しては欧米に遙かに劣る。リー・ウォンイルの例に見るように、図録制作の際のチェック機能も正常に働いていないケースがある。

 

複数の業界関係者によれば、プレパレーター(展示担当者)を育成する教育機関はアジアにはほとんどなく、設営を行う業者は限られている。広告代理店や映画宣伝会社など、外部から広報の専門家を招くこともたまにはあるが、設営・展示と同様、ノウハウが蓄積・伝達されていない。仕込みと宣伝がちゃんとしていないと、いくら美味しい料理を出しても店に客は来てくれない。どの国においても予算が潤沢でないから実現は簡単ではないだろうが、各国が手を携えて、現状改革に挑むべきではないだろうか。(2006.10.26)

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。