









ソウルでの短い滞在を間に挟み、シンガポールと光州に行ってきた。ふたつのビエンナーレを訪れるのが目的である。シンガポールは今回が第1回、光州は第6回でちょうど10年目の節目に当たる。歴史の長短のみならず、様々な点で対照的なふたつだった。
シンガポールのテーマは『信念(Belief)』。複数民族・宗教・言語が共存する都市国家の実情を鑑み、アーティスティックディレクターの南條史生はストレートなテーマを採択した。特徴的なのは展示会場の選択である。もとは裁判所だったという市庁舎や、かつての兵舎、目抜き通りオーチャード通りの路上や店舗に加え、カトリック教会、アルメニア教会、仏教寺院、ヒンドゥー寺院、ユダヤ教のシナゴーグ、イスラム教のモスクなどが用いられている。観客は作品鑑賞をしながら、自ずと市内観光を行うことになる。
参加作家は計95人・組。第1回台北ビエンナーレや第1回横浜トリエンナーレを手がけた南條らしく(後者は共同キュレーション)、ジェニー・ホルツァーや草間彌生らビッグネームと各国の若手を、国際的なキュレーターネットワークの助けを借りてバランスよく選んでいる。大型展だけに作品は玉石混淆で、「場所の強さに比べて作品が弱い」と辛口のコメントを述べる海外ジャーナリストもいたが、ジェーン・アレキサンダー、劉建華、栗林隆ら、場所の特性を生かしたインスタレーションには見応えのあるものがいくつかあった。12月に正式リオープンする国立美術館での、カールステン・ニコライやビガート&ベルグストロムの作品も力強い。地元ジャーナリストによれば、現代美術作品を展示するこのような場所がようやくできたことが、何よりも歓迎すべきことだという。
サテライトイベントも含め、運営的にも非常に整っている印象を受けた。アジアで開催される国際展、それも1回目のものとしては、成功例と言ってよいのではないか。2004年以来、シンガポールのGDPは前年比7.5%、6.7%増と急成長を続け(シンガポール金融管理局調べ)、2006年度も7.1%増と予測されている。好調な経済状況を背景に、9月11日から20日にかけてはIMF(国際通貨基金)および世界銀行の年次総会が開催され、184ヶ国から16,000人の来訪者が見込まれている。このタイミングに合わせ、政府が巨額の予算をつぎ込み、ビエンナーレを文化国家の証として(明治期日本の鹿鳴館のように)外交的に用いようとしているのは明らかだ。実際、ナショナル・アーツ・カウンシルの代表は「チケット販売収入によって経費を回収しようなどとは毛頭考えていない」と明言した。
国の威信を賭けたイベントがアジアでも指折りの統制国家で行われるのだから、整っているのは当たり前である。だが、よいことずくめではない。関係者によれば、アレキサンダーら一部の作家の政治的な作品に関して、情報通信芸術省から強硬な「要望」が出されたという。会田誠の『日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ』は、実際に小泉純一郎首相を揶揄する箇所を削除して上映された。また、現地ジャーナリストによれば、地域社会には事前情報が十分に伝わっていない。もちろん、報道の量は開催後にはぐっと増えるのだろうが、人口400万人という小さな共同体、しかも、現代美術にあまり馴染みがなく、本格的なアート雑誌もない土地に、(ビエンナーレ以前に)アート自体を根付かせるのは容易ではないだろう。その意味では、オーストラリアの都市文化情報誌『Broadsheet』シンガポール版の刊行は喜ばしい。


鑑賞が可能なインスタレーション

デヴィッド・エリオット(森美術館館長)
一方、光州は「熱風変奏曲」をテーマに掲げ、グローバル時代におけるアジアのアイデンティティを真正面から模索・追求しようとした。シンガポールとは対照的に作品展示は主会場に集中し、作家もアジア、それも海外に移住した者が少なからず選ばれている。オープニングに招かれたある海外キュレーターは「前回、前々回に比べると、展示方法は格段にプロフェッショナルになっている」と言う。とはいえ、それは以前があまりにひどかったからだ、施工の詰めが甘い、運営側の指揮系統が一元化されていないなど、参加作家からは不満の声も聞かれた。
一部のコンセプトばかりが先行する展示を除き、作品は決して見劣りするものではない。だがシンガポールに比べるとどうしても弱いという印象を受けるのは、光州に観光資源がほとんどないという事実に大きく依っているように思う。「海外からの訪問客をどのくらい見込んでいるか」という質問に、アーティスティックディレクターのキム・ホンヒーは「数は何とも言えないが、少なくとも前回よりは多いことを希望している」と述べた。しかし、ほとんどの海外観光客がソウルを経由しなければならないことや、宿泊施設が少ないことなども含め、シンガポールへの劣位は否定しがたい。
南條は「国際展は一義的には地元市民のためのもの」「ビエンナーレの内容がツーリズムに迎合したものであってはならない」と主張しており、キムもほぼ同意見である(『ART iT』12号)。また、上海ビエンナーレ共同キュレーターのひとり、トビアス・バーガーは「ビエンナーレは国際的なジェット族キュレーターのためのものではない。以前に別の国際展で展示された作品でも、地元の人々が見ていないなら見せてもかまわない」と断言している(『Art AsiaPacific』50号)。光州の開幕直後に開かれた、各国キュレーターによるシンポジウムでは「よいビエンナーレとは何か」という主題のもとに、「国際展は誰のためのものか」という議論が戦わされた。
南條の持論とは裏腹に、シンガポール・ビエンナーレは地元コミュニティよりも海外観光客に魅力的に映る。もちろん、観光を売り物にする土地とそうでない土地とでは事情が異なるが、これだけ諸国間の交通が容易になっている時代に、「文化観光」を意識しない手はないだろう。「美術史的知識」と「文脈の理解」が要求される現代美術を、広く一般大衆相手に展示する国際展は、祝祭感の高揚も含めて高度な啓蒙普及戦略を考案・採用せざるを得ない。それはシンガポールや光州だけではなく、すべての国際展関係者が熟慮すべき問題だと思う。(2006.9.14)
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。