

いささか旧聞に属する話だが、東京都現代美術館で開催中の『カルティエ現代美術財団コレクション展』(7月2日まで)のオープニングレセプションで、石原慎太郎都知事が行ったスピーチについて書いておきたい。いささかならずスキャンダラスな話題として、フランスの新聞数紙で取り上げられたにもかかわらず、日本ではわずかなメディアしか報じなかったからである。
「事件」は4月20日の夕方に起こった。1500人とも1800人ともいわれる招待客には、顧客を交えた多数のカルティエ関係者が含まれていたが、都知事はまず「私は巨大ブランドは嫌いだ」と冷水を浴びせることから始めた。続いて発せられた言葉は、概略以下のようなものだった。「すばらしい展覧会だというから楽しみにして来たが、大したことはなかった」「ここにあるものはすべて下手物だ」「(ロン・ミュエクの作品は)赤ん坊の目で見た母親の像だというが、説明されなければわからないものはよい作品とはいえない」「デカければいいというものではない」「だから僕はインスタレーションアートってやつが嫌いなんだ」

そして都知事は、都が運営するアートスペース「トーキョーワンダーサイト」(TWS)の活動に触れ、TWSを核にして進めている若手アーティスト育成計画を自画自賛し、「カルティエにも、こういうプロジェクトに金を出してほしい」と締めくくった。スピーチはもちろんフランス語に同時通訳され、会場にはしらけた空気が漂った。翌日以降、『フィガロ』『リベラシオン』などフランスの新聞が次々に発言を記事化し、国際的なアート雑誌『アートフォーラム』ウェブ版も、『リベラシオン』の記事を引用する形で事件を報じている。
問題点を整理すると、大きく分けて2点あるように思う。1:都知事という公人がレセプションという場でこのような発言をすることは適切か否か。2:発言内容は正鵠を射ているか否か。さらに、1についてはふたつに分けて考えられるだろう。一般的な礼節の問題として適切か否か。外交上・運営上、適切か否か。礼節問題は論議するまでもないことだから後者にしぼるが、そのためには都現美の運営状況とカルティエ展の成立事情をおさらいしておく必要がある。
東京都現代美術館は1995年に開館した。運営は、当初は財団法人東京都教育文化財団(その後、財団法人東京都生涯学習文化財団に名称変更)が、2003年からは同財団が統合された東京都歴史文化財団(歴文)が指定管理者として受託している。開館時に21億8000万円あった予算は、毎年削りに削られ、現在は7億5000万円ほど。大半は人件費や建物のメンテナンスなどの管理費に消え、展覧会予算は1億5000万円ほどしかない。展覧会は年間5本ほどだが、財団による独自企画はだいたい2本で、残りは外部の協賛を仰いで制作している。予算が減っているのは、言うまでもなく都が補助金を減らしているからである。

Photo by Kioku Keizo
カルティエ展は、典型的な外部協賛企画である。予算は「われわれ(歴文)は1000万円以下、カルティエさんが1億円以上」(都現美・並木一夫副館長)。観客動員は順調で、「最終的にはおそらく6万人を超える」とのことだ。これまでで最高の『ポンピドー・コレクション展』(97年:30万人)には遠く及ばないが、二番目の『アンディ・ウォーホル展』(95年:9万人)、三番目の『荒木経惟展』(99年:7万5000人)と比べても、悪くない数字だ。
都現美は、「知事はカルティエさんが呼んだ来賓であり、我々は来賓のスピーチについてコメントする立場にない」と言う。上述したように都現美は歴文に運営されており、その歴文は東京都生活文化局が監理する団体である。また、都現美の館長(現在は日本テレビ放送網代表取締役・氏家齋一郎)は、都知事が指名・任命している。にもかかわらず「来賓」とは奇妙に聞こえるが、それはともかく、大規模動員をなしえ、制作費もついてくる展覧会が、このスピーチによって今後減ることは十分にありうるのではないか。現代美術の良質な、あるいは良質といわれる作品が、少なからず海外の、それも「巨大ブランド」関連の財団にコレクションされている現状を思うと、杞憂とはいえないと僕は考える。

Photo by Kioku Keizo
次に第2点。小説家であり、自身、(質はともあれ)絵画も描く都知事の発言内容は、正鵠を射ているか否か。ここで考えるべきは「下手物(げてもの)」という表現である。もちろんここで都知事は、焼き物や工芸品における「上手物(じょうてもの)」との対比概念として、この言葉を用いている。この用語は都知事のお気に入りのようで、TWS渋谷がオープンした際にも、主にアート関係者や都の文化官僚が集まったレセプションで「現代美術は誕生した瞬間には下手物にすぎない。それが古典となるためには歴史の審判を経なければならないが、古典の種を発見して育てるのは君たちの役目である」という趣旨のスピーチを行っている。これ自体は非常にまっとうな主張であるが、だとすればカルティエ展での発言も単なる揶揄や挑発ではなく、自らの確信を述べたものと思われる。
しかしそれは、ロン・ミュエク、トニー・アウスラー、シェリ・サンバら、すでに高い評価を得ている作品を集めた展覧会に向けての発言として、ふさわしいものだろうか。また、必ずしも現代美術の専門家ではない都知事が、自らの印象に基づくだけの感想を述べることに、建設的な意味はあるだろうか。スピーチを聴いたある有力ギャラリストは「知事は、アートをまったく理解していない。都現美の館長以下担当者は、展覧会の背景を知っていたはずだが、彼にそれを伝えていたのだろうか」と不快感をあらわにし、「独善的なこの男は、責任ある文化行政の場から追放すべきだと思う」とまで述べている。

Photo by Kioku Keizo
僕がうんざりしているのは、多くの関係者とこの国のメディアに漂う事なかれ主義に対してである。記事を書くにあたって、正確を期すために、スピーチ全文の記録が残っていないかどうか各方面にあたってみた。都現美は「来賓のスピーチは記録しないことになっている」。カルティエ財団は「われわれはビデオもテープも録っていないが、カルティエの日本法人(リシュモンジャパン)は録っているはず」。しかし、そのリシュモンジャパンも「われわれは録っていない」。カルティエ財団ディレクターのエルヴェ・シャンデスにはメールでいくつかの質問を送ったが、「ノーコメント」とのことだった。
また、冒頭に書いたように、アート関連のブログや一部の雑誌を除くと、これまでのところ取材を行って事件を報じたのは、都議会野党である共産党系の『赤旗』と、硬派にして揶揄的な姿勢で知られる『週刊新潮』のみ。後者は、小説家としての石原慎太郎と関係の深い新潮社が発行する週刊誌で、「この毒舌こそ石原都知事の持ち味である」というのが結語である。『朝日』『読売』『毎日』など大手新聞各紙は、僕の知る限り何も報道していない。
上に述べた2点については、これを出発点に、さらに論議されるべきだろう。2に含まれる「説明されなければわからないものはよい作品とはいえない」というような俗耳にも入りやすい主張は、俗耳に入りやすいからこそ多くの人々に議論を深めてもらいたい。1に関わるものだが、「文化行政の場から追放すべき」かどうかについても同様である。石原都知事は5月14日、三選目出馬の意向を示している。(2006.6.22)
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。