


Photo by Tsuyoshi Saito

Courtesy of Frehrking + Wiesehofer Gallery, Cologne

Photo by Kira Perov

Photo by Tsuyoshi Saito

たいへん遅ればせながら、水戸芸術館で開催中の『人間の未来へ|ダークサイドからの逃走』展を観に行った。力のこもった展覧会である。もっと早く行って、もっと早くこの稿を書くべきだった、と悔やんでいる。アントニー・ゴームリー、ビル・ヴィオラ、オノ・ヨーコら、現代美術界のビッグネームとともに、ユージン・スミス、ジェームズ・ナクトウェイ、広河隆一ら、著名なジャーナリストの作品が並べられている。その多くが戦争や虐殺など、すぐれて現代的な不幸を扱い、同時に静謐な美を湛えている。現代社会の「ダークサイド」を告発する強い意志がそこにあり、だがその意志は、それぞれがアート作品であることを妨げてはいず、逆に強めているようにさえ思える。(5月7日まで)
個々の作品はそれぞれに観る者の感情をかき立てるが、その効果を増大させているのが展覧会全体の構成の妙だ。ゴームリーの極端に抽象的な彫刻の後に、マイケル・ライトが編んだ写真集『100 Suns』から選ばれた核実験の記録写真が続く。水面を挟んで、悲しみに暮れる男女が上下ふたつのスクリーンで対称的に向き合うヴィオラのビデオ作品の反対側に、マグダレーナ・アバカノヴィッチの顔と手先のない人体彫刻が配置される。スケール感あふれるスゥ・ドーホー作品(後述)を仰ぎ見た直後には、1945年から98年の間に7ヶ国が行った2053回もの核実験を、光の明滅と印象的なデジタル音で示す橋本公のメディアアート作品が待っている。その隣の部屋には、ナクトウェイと広河がアフリカや中東など、現代史の矛盾が露呈されている場所で撮った、世にも悲惨な、だが美しくも見える写真が壁一面を飾っている。作品の間には、レフ・トルストイや谷川俊太郎らの、戦争と平和をめぐる内省的なテキストが掲げられている。
大国による核実験を扱ったライトや橋本らの作品は、現象としての大量死を主題としている。一方でヴィオラやアバカノヴィッチの作品は、そんな時代に生きる個人の悲劇を、個人のスケールで捉えている。ナクトウェイと広河の写真も同じく個人に絞り込んだもので、例えばチラシにも転載されたナクトウェイの『タリバンのロケットで殺された兄弟を悼む』という作品を見ると、全身を伝統衣装で覆ったムスリムの女性が、そこだけ肌が見える片手を荒涼たる墓地の墓石に延ばしていて、言葉を失う。大量死は魚群のようにひとつのマスとして扱われざるを得ないが、その中で死んだ(殺された)人々は、どのような集団にも回収されないただひとつの「個」にほかならず、後に残された者の孤独と慟哭も同様である。当然でありながらときとして蔑ろにされるそんな事実を、視覚的・知的に強調するために、抽象(大量死)と具体(個々人の死)のふたつが交互に現れる。
僕がいちばんぐっと来たのが、スゥ・ドーホーの巨大な立体作品である。おなじみの布を用いて、作家は水戸芸術館のいちばん天井が高い部屋に、落下傘を背負った兵士をぶら下げてみせた。落下傘の部分は多数のシャツでつくられていて、解説によれば「複数の人間存在を暗示する。見知らぬ場所へ生き残るために降下する一人の人間を多くの人が支えている」とのこと。だが、この作品は非常に多義的であると思う。この兵士は降下しているのか上昇しているのか、目的は戦争か平和か、自身の脱出か他者の救出かなどなど。水戸芸術館が委嘱したわけではないそうだが、完璧といってよい展示空間の使い方を見ると、この展覧会のために特別につくった新作であるかのように思える。
ここまでは展示の前半で、後半になると主題はやや拡散する。オノ・ヨーコの『絶滅に向かった種族2319-2322』を別として、後半の作品は、現在進行形の悲惨な現実を呈示したり、その現実に基づいて未来に警鐘を鳴らしたりするだけではなく、「希望」をメッセージとして含みこんでいるものが選ばれている。『百年の愚行』というペシミスティックな写真集を編集した立場から言えば、個人的にはこの楽観主義、あるいは現実逃避主義は甘いと思う。だが、すべては展覧会名が物語っている。考え方は多々あるだろうからここでは深追いしない。ひとつだけ書いておくと、最後の部屋にあるシリン・ネシャットの『熱情』は、両性が画然と分かたれた礼拝場の中で、遠くにいながら目と目を見交わすムスリムの男女を描いた映像作品で、シンメトリックな画面構成が主題と密接に関わった傑作である。だがこの作品は、他の作家の作品とリンクするようでいて、微妙にしていないと思う。
展覧会を企画した、水戸芸術館現代美術センター芸術監督の逢坂恵理子に話を聞いた。ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館コミッショナーも担当したことのある、ベテランキュレーターだ。「最初の企画書は2002年に書きました。やはり9.11と、それに続いての米軍のアフガン侵攻がショックで、『美術に何ができるか?』と自分で自分に問いかけたんです。私はアクティビスト(活動家)ではないから、自ずと出てきた結論がこの企画でした」
エドワード・サイードは、「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」と述べている。「アマチュアリズムとは、文字通りの意味をいえば、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のことである」(『知識人とは何か』大橋洋一訳)
「アクティビスト」の正確な定義を僕は知らない。しかし、サイードによる「知識人」の定義は、僕がイメージする「アクティビスト」のそれに極めて近い。『人間の未来へ|ダークサイドからの逃走』展に参加したアーティストとジャーナリスト、そして逢坂恵理子は、サイードの定義にぴたりと当てはまる「知識人」であり、「アマチュア」である。僕には彼らが、立派なアクティビストであるように思える。(2006.4.20)
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。