COLUMN

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Out of Tokyo

136:アートはスポーツである
小崎哲哉
Date: April 06, 2006
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Vie Vieさん
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けやき坂スタジオから見える景色(雨でした)

この4月から、首都圏のFM放送J-WAVEで、アートについてのおしゃべりをすることになった。午後の帯番組「NESCAFE GOLDBLEND Inner Sketches」という枠で、僕の出演は毎週水曜日の14:20頃〜14:50頃。聞き手はベテランパーソナリティのVie Vieさんだから、気負わずに、そして気持ちよく話すことができる。昨日(4/5)の第1回は、「東京のアート空間案内」というお題をいただき、森美術館と原美術館、それに清澄のギャラリーコンプレックスを紹介した。

 

番組スタッフの要望は、「難解な現代美術についてわかりやすく解説し、敷居が高いアートの世界に一般リスナーの足を踏み入れさせてほしい」ということに尽きる。まっとうな要望だと思うし、その要望に応えたいとも思う。だがその前に、もう少し正確な言い方に書き直しておきたい。「難解だと思われている現代美術についてわかりやすく解説し、敷居が高いと思われているアートの世界に一般リスナーの足を踏み入れさせてほしい」。「と思われている」という一節を足してこう書き換えると、要望の裏にある含意が見えてくる。要望が向けられた相手、すなわち僕が「実はアートはむずかしくなんかないし、敷居も高くないんです」と答えることが期待されているのだ。ところがどっこい、アートがむずかしくないわけはないし、敷居だってやっぱりけっこう高いかも。

 

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アシューム・ヴィヴィッド・アストロ・フォーカス:Absorb viral attack fantasy

放送時間は限られているから、今後のオンエアでどこまで話せるかはわからない。でも、自分自身、考えをまとめる必要があるから書いておくと、僕はいまのところ、アートをスポーツやゲームに喩えるとわかりやすいと思っている。アートはスポーツである。ただし、アーティストが自らルールを発明するスポーツである。ルールは勝手極まるもので、ほとんどの場合、観客向けのルールブックなどはない(たまにある。あるとたいていつまらない)。単純なルールもあれば、複雑なものもある。複雑だが理解しやすいルールもあれば、単純であっても理不尽な、あるいはどんなものなのか余人にはわかりがたいものもある。アートの楽しみとは、そのルールを見抜き、解読し、学び覚え、それに則ってゲーム=作品を鑑賞し、場合によっては自らゲーム=作品に参加するところにある。作家の数だけルールがあり、したがってゲーム=作品があり、当然ながら万人に受けるものは少ない。受ける受けないは、必ずしもルールの複雑さとは関係ないが、完全に無関係ではない。

 

格闘技、例えば相撲は非常にわかりやすい。相手が倒れるか、土俵の外に出れば自分の勝ちだ。ゴールを目指す競泳や陸上の競走は、これはもう言わなくてもいいくらいだろう。球技では、サッカーはボールを敵側のゴールに入れれば点が入るという点はわかりやすいが、ハンドやらオフサイドやらという反則は見ているだけではわからないかもしれない。はるかに複雑なのは野球やクリケットなどで、僕は野球が盛んな国に生まれ育ったから前者はよくわかるが、たまに海外のテレビでクリケットを見ても、何をやっているのかまったく理解できない。だいたい、なんであんなに点が入り、大差が付くんだろう?

 

それはどうでもいいけれど(英国文化圏の人、ごめんなさい)、ある程度はルールを知らないとスポーツを楽しめないことは自明である。アートだって同じことだ。しかも、普通のスポーツは対戦形式のものが多く、敵味方双方にとっての公正さがルールづくりの基本となるから部外者にも理解しやすい。対するにほとんどのアートには敵味方が存在せず、そのために公正さという観念とは無縁であり、上にも書いたとおり、アーティストが恣意的にルールをつくる。さらに、ほかの世界と同様に、アートにおいてもオリジナリティ、すなわち新しいルールに基づいた新しい作品が尊重・尊敬され、一方、先達へのオマージュや、先人の業績を踏まえた本歌取り的な作品も歓迎される。事態はますます複雑である。

 

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戸谷成雄:ミニマルバロック

それやこれや引っくるめての「楽しみ」である。むずかしくないわけがない。チェスや麻雀やコントラクトブリッジと比べてもいいかもしれない。ルールを熟知することはもちろん、棋譜を研究したり、定石を学んだり、スタープレイヤーの名前を覚えてひいきにしたりすることで、楽しみは倍加する。簡単で楽じゃないからこそ、あれだけファンがいる。

 

番組で触れた清澄ではいま、たとえばヒロミ ヨシイではアシューム・ヴィヴィッド・アストロ・フォーカス展を、シュウゴアーツでは戸谷成雄展をやっている(ともに4/28まで)。前者は欲望を外部に全開したかのような、強烈な光と色彩が乱舞する祝祭的なインスタレーション。後者はチェーンソーを使って大胆に、しかし繊細に彫られた、一見シンプルで静謐な印象を与える内省的な彫刻の展示である。それぞれの作家に内在する動機とエネルギーが似ているかどうかは知らない(おそらくは相当に異なるだろう)が、外面だけでもこれだけの、あるいはこれ以上の振り幅を現代美術は持っている。それを一般リスナー向きとはいえ、安易に「むずかしくない」とは僕には言えない。逆に、こういうことを筋道立てて話すことによって、アートファンが増えるんじゃないかと思う。楽しそうでしょ?

 

もう一方の「敷居の高さ」のほうは、それがギャラリーの敷居だとしたら、「実はそんなに高くない」と言えそうな気がする。某ブランドもののブティックのほうが感じ悪くないですか(って、そんなに行かないけど)? それよりも、やはり必要なのは、適切な情報を適切な範囲に広める努力ではないだろうか。『RT』も『ART iT』もがんばらなくっちゃ。(2005.4.6)

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。