


アルノー・デプレシャン監督が来日し、日本未公開の新作『キングス&クィーン』(2004年)を含む3作品が上映されるとともに、ティーチインやトークイベントが行われた(1/28, 2/3 東京日仏学院)。第11回カイエ・デュ・シネマ週間の開催に伴い実現したものだが、『キングス&クィーン』は噂に違わぬ傑作である(日程未定だが年内に公開される予定。配給はギャガ・コミュニケーション)。
裕福な男との再婚を目前に控えた35歳の女性、ノラが主人公。映画の冒頭は幸福感に包まれているが、もちろんそれは後の波乱を予感させるに十分な不安も含みこんでいる。案の定、物語は二転三転し、ある種のフランス映画の伝統と呼ぶべきか、酸いも甘いも苦いも哀しいも併せもった、映画的至福に満ちた時間がゆっくりと進んでゆく。ひとつのシークェンスを複数のテイクのカットで組み立てる手法と相まって、150分という長さを感じさせない。ディテールに嫌みにならない程度の遊び(「ハンドルの遊び」というときの「遊び」)があり、やや奇矯な設定に現実味を与えている。
あえてひとことで言うなら「大人の映画」である。多くのフランス人映画作家の例に漏れず、デプレシャンもヌーベルバーグ以来の伝統を踏まえた作家だ。それはすなわち、ヌーベルバーグに先立つ伝統をも踏まえた、ということである。シャブロルやゴダールやトリュフォーがルノワールやホークスやヒッチコックに学んだように、デプレシャンも先達の作品を繰り返し観て楽しみ、研究し、分析し、引用し、そして超えようとしている。我々が観る150分の中には、映画史110年が詰め込まれているのだ。
『カイエ・デュ・シネマ』に書くことからスタートしたヌーベルバーグの作家たちの多くとは異なり、デプレシャンは批評家時代というものを持ってはいない。とはいえそれは、デプレシャンに批評眼がないということをもちろん意味しない。それを証立てるかのように、現在、日仏学院で開催中の『人生は小説=物語(ロマン)である』という映画祭は、デプレシャンが選んだ作品を上映している(2/3〜3/31)。サッシャ・ギトリの『とらんぷ譚』(1936)からエドワード・ヤンの『ヤンヤン/夏の思い出』(2000)まで、選ばれた17作品に共通するのは、タイトル通り(映画ならではの)物語性だろう。

日仏学院が作成したチラシには、デプレシャンが自ら書いた作品紹介テキストが掲載されていて、この作家がいかに優れた批評家的/プロデューサー的見識を持っているかが、そして映画に対してどんなものを求めているかがよくわかる。序文に当たる文章から一部を引くとこんな具合だ。「この『白紙委任状』を提案された時、当初、幾つかのアイディアの間で躊躇ったあげく、それぞれまったく異なるジャンルに属していながらも、同じ系統、同じグループに属している作品についての特集を作ってみることにしました」「僕は自分を取り囲む世界をあまりにも信じられなくなるとき、映画を見に行きます。自分が実際に存在していることを思い出すためなのか、それとも存在していないという甘美なまでの確信で満たされるためなのでしょうか……」
文学者や哲学者の新刊には、彼/彼女の精神史が、形を変えて収録されているだろう。音楽家の新譜には、彼/彼女がこれまでに聴いてきた音楽が、消化し昇華されて組み込まれているだろう。演劇でもダンスでもデザインでも同じこと。その意味で、すべての表現作品は、すべからく表現者が彼/彼女の半生に吸収した作品/経験の焼き直しにほかならない……というのは理想論で、それが必ずしもそうなっていないのが問題なのだ。
同様の企画がもっとたくさん行われることを期待したい。日本の監督で言えば、黒沢清や青山真治や三池崇史のセレクションによる映画祭だ。「白紙委任状」を渡された才能ある映画作家がどのような作品を選ぶのか? 彼ら/彼女らの作品とともに彼ら/彼女らの「映画的精神史」が観られれば、我々の映画への愛もさらに深まるのではないだろうか。マーティン・スコセッシの『私のイタリア映画旅行』を観ると、その中に引用されたロッセリーニやフェリーニやアントニオーニの作品を観たくなる。シネフィルとは、そんな本能が埋め込まれている人種である。(2006.2.9)
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。