COLUMN

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Out of Tokyo

124:子供の国のアート
小崎哲哉
Date: October 13, 2005
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「ニュート」展会場風景(『CET』)

前回のコラムを書いてから、横浜トリエンナーレへ2回足を運んだ。完成した高嶺格の「鹿児島エスペラント」は予想通り素晴らしかったが、いちばん「今回のトリエンナーレらしい」と思ったのはソイ・プロジェクトだ。バンコクのソイ、すなわち路地をイメージしたという安っぽいブースの中に、おっぱいの形をしたクッションが並べられ、ポップな(しかしいかがわしい)射的場や、カジュアルな(というより脱力するような)バーが再現されている。タムくんことウィスット・ポンニミットは、ご存じの通り温かいタッチのカートゥーンを扉に描いた迷路をつくり、ときおり胸をキュンとさせてくれた。合板で囲まれた空間は、奈良美智+grafの廃材でつくった小屋と同様、非常に居心地のよいものだった。


ポール・デイヴィス

前回書いた「大人がつくった学園祭」という印象を、最も強く与える展示である。もちろん、既存のアートマーケット寄りのプロたちにはすこぶる評判が悪い。権威ある国際展には似合わないし、こんなインスタレーションはまず売れないし、売れても二束三文だろうし、アート史的な価値だって(そういうプロの判断としては)ほとんどない。でも、これが現代の、特にアジアに生きる若い世代の、典型的な表現パターンのひとつであることは間違いない。テレビとポップスとインターネットに囲まれて育った中流階級の若者たち。


津村耕佑
アレクサンダー・ゲルマン

今年で3年目を迎えたフェスティバル『CET』(『セントラルイースト東京2005』10/1-10)の展示からも、ほとんどトリエンナーレと同様の印象を受けた。都心空洞化が進む神田や日本橋エリアの空きビルを利用した『CET』は、デザインオリエンテッドなところが横浜とは違うが、ここにソイ・プロジェクトの作品を持ってきても何の違和感もないだろう。断っておくが、『CET』にだって「大人な作品」はあった。原田幸子がキュレーションした「Office Vacant」は、テナントが立ち退いた古い、しかし重厚な印象を与える三井の持ちビルのフロアを、ポール・デイヴィスや津村耕佑らの優れた作品で埋め尽くした。中でも、アレクサンダー・ゲルマンのミニマリスティックなインスタレーションと、エンライトメントの浮遊感を誘う3Dプロジェクションは完成度の高い傑作だ。しかしそれ以外の大部分は「学園祭」と呼んでも過言ではない。

 

だから悪いと言っているのではない。問題は、学園祭的な作品があまりに蔓延している傾向にある。最近の体験例をもうひとつ挙げると、東京都写真美術館で開催中の『恋よりどきどき コンテンポラリーダンスの感覚(アイステーシス)』(10/1-11/13)。『ART iT』の連載で「2004年度・展覧会タイトルワースト10」を選んだ都築響一が、今年も同じ試みを行うならワースト1に挙げるに違いない展覧会名だが、そのことではない。いまの日本で人気のある3つのダンスカンパニーが、2階会場で展示しているインスタレーションのことだ。あえて不安定なマトリックス状のダンスフロアをつくり、映像と組み合わせたニブロールはまだしも、珍しいキノコ舞踊団とコンドルズは、雑貨やら古着やらを並べた空間を雑然とつくりあげている。居心地は悪くはないが、発想も仕上がりも非常に子供っぽい。


photo by Maeda Keizo
photo by Maeda Keizo
Rosas & Thierry De May, from the film "Fase"

「キノコと近藤良平だし、まあ、こんなものか。なかなか楽しいかも」と呟きながら地下1階に降りたあなたは、そこで『ROSAS XXV ローザスとアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルの25年』を観て呆然とするだろう(10/1-30)。入口に置かれた椅子とシューズで、まずは心臓をわしづかみにされる。中に入ると、壁3面に代表作の名場面の写真が貼られていて目を奪われる。「アンヌ・テレサの振付言語の解析」という映像は、まあ普通に感心して観ればいいとして、圧倒的なのは中央に設えられた白い砂の空間である。

 

相撲の土俵のような砂の上に、ふと気がつくとダンサーの姿が映し出されている。真俯瞰で撮った、アンヌ・テレサその人の映像だ。スティーヴ・ライヒの「ヴァイオリン・フェーズ」に振り付けたソロ作品。精確な、だがわずかにずれてゆくステップは砂上に深く刻まれ、限りなく正円に近い形が描かれてゆく。音楽とダンスが進むとともに、幾何学的な模様が新たに誕生し、過去のラインは消し去られてゆく……。僕はダンスが終わるまで——つまり、1曲の音楽が奏で終えられるまで——その場を一歩も動けなかった。「強度」なんていう使いなれない、その昔「ニューアカ」と呼ばれたインテリたちの間で流行った単語が頭に浮かんだ。

 

25年の歴史を持つカンパニーと、その半分以下のキャリアしかないカンパニーを比べるのは酷かもしれない。けれども、その違いは時間にのみ由来するものではないような気がする。やはりこの国は、そしてアジアの多くの地域は、文化的には「子供の国」なんじゃないだろうか。「それでいいじゃないか」と開き直る気には僕はなれないし、それではまずいと思う。でも、アジアだけじゃなくてこの惑星のすべてが「子供の時代」に入っているような気もする。頭が痛い。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。