

再開発問題で揺れる下北沢のザ・スズナリで、reset-Nの『Valencia』を観た。小さな美容室を舞台に、男女の感情のもつれを描く一種のサイコドラマである。ポツドールほど超リアルではないが、演出と演技は台詞回しも含めてすぐれて現実的。ところがストーリーは思わぬ展開を見せ、強烈に不条理な場面が唐突に訪れ、その謎は最後まで解明されない(再演されることもあるだろうから、ネタバレとならないようにここでは細部を書かない)。
古典的な不条理劇とは違う。ベケットやイヨネスコや別役実の場合、劇的世界そのものがまるごと不条理であり、観客は終始、その不条理世界に呑み込まれている。『Valencia』においては、その場面に至るまでは、劇的世界は日常的な現実社会とほぼシームレスにつながっている。あえて図式的にいえば、リアリズム演劇の中に不条理演劇的世界が、突然ひとこまだけすっと紛れ込むというようなつくりなのだ。
その意味では、文学におけるマジックリアリズムに通ずるものがある。ただし、ガルシア=マルケスを例に挙げるまでもなく、マジックリアリズムが主筋そのものと離れて用いられることはほとんどない。現実的な物語の中に突然挿入されるという技法的な面は同じだが、前後のプロットとの関係性は、『Valencia』の不条理場面のほうが明らかに希薄である。いや、この場面こそが作者・夏井孝裕が最も見せたかったものであり、その意味で作品の核ではあるのだろうが、演劇的時間の流れの中で、ここだけが別の宇宙から訪れた異星人のように異質なのだ。

Courtesy: the artist
同様のシーンは昨今、他の表現者の作品にも多々見られる。ポール・トーマス・アンダーソンは映画『マグノリア』で、夥しい数のカエルを空から降らせた。村上春樹は小説『海辺のカフカ』で、「およそ2000匹のイワシとアジ」を同様に空から降らせた。アンダーソンの先駆者は、いうまでもなくデヴィッド・リンチだろう。文学ではポール・オースターらに早くからその傾きが見られ、日本では舞城王太郎がますますその手法に磨きをかけている(もっとも舞城の最新作『ディスコ探偵水曜日』(「新潮」5月号)はストレートに「可能世界論」を扱っていて、物語は冒頭から現実世界を超越している。三部作の第一部だというこの作品は、ベケットや別役に近いのかもしれない)。アートにおいては、森美術館で開催中の『ストーリーテラーズ』展(6/19まで)の諸作品(グレゴリー・クリュードソン、テリーザ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラーら)が、物語を語る者というよりも物語の種としての役割を果たしていて観客の想像力を刺激する。

社会学者の宮台真司は、『マグノリア』や村上の小説(ただし『神の子どもたちはみな踊る』)を実例として挙げ、「<社会>の中に未規定な<世界>が唐突に闖入する瞬間を、ある種の名状しがたさの体験とともに、描き出している」と評価している(『絶望 断念 福音 映画』メディアファクトリー)。宮台によれば、コミュニケーション可能なものの総体が<社会>であり、ありとあらゆるものの全体が<世界>である。原初的共同体の段階では未分化だった<社会>と<世界>が、社会が複雑になると分かれてしまう。そして「<社会>よりも<世界>への敏感さ」による「自分と<世界>との関係」の「リフレーミング」が必要だと説く。その観点から、『マグノリア』や村上の小説は擁護されるのだ。
基本的にこの主張には賛成だ。高畑勲が宮崎駿を批判するときに必ず挙げるように、観客の想像力を奪うようなファンタジー/謎では自己満足の謗りを免れないだろう。だが<社会>のどこかがほころび、<世界>の一端が露呈する瞬間には、魂を揺さぶる原初的な感動がある。その瞬間は、現代ではますます稀少になっているだけに、フィクションの中であれそれが巧妙に提示されれば、我々は満足感を抱き、興奮を覚えるのだと思う。

一方で、<社会>の中に存在しながら忘れ去られがちな<世界>があり、その断片を捉えて発表する表現者がいることも強調しておきたい。たとえば、今年のヴェネツィア・ビエンナーレのポーランド代表作家でもあるアルトゥール・ズミエフスキ。『イメージフォーラムフェスティバル2005』(東京上映は終了。京都は5/15まで。以下、福岡、名古屋、金沢、横浜を巡回。www.imageforum.co.jp)で観たのだが、耳の聞こえない者が教会でミサ曲を歌う『シンギング・レッスン I』や、障害者の入浴シーンなどを撮った『目には目を』などで、健常者が日常はほとんど目にしえない(あるいは無意識のうちに視界から排除している)<社会/世界>を描いている。「障害者への同情」などというPCとはまったく無関係の作品だが、ズミエフスキと同様の広い視野を、今日の(とりわけいわゆる「先進国」の)表現者のうちどれほどが持ちうるのか。いささかならず心許ない。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。